Ms.teryさん

気の向くままに

伝える

何かを伝える時、どうしても長くなってしまう。相手に100%の理解なんて求めていないが、誤差が少しでも小さくなるよう補足を多用する。でも残念なことにそうすると長くなる上に、何が言いたいことなのかわかりづらくなる。

ここでの文章だってそうだ。なくてもいい文が沢山ある。大抵500文字を超える。1000字以上なんてのもある。その原因はきっと僕の話し方にある。

何も考えないで話す癖がある。とりあえず何か話して、そこから考える。思いついたら話す。間違いだと感じたら訂正する。そしてもう一度正しいのか吟味する。そうして考えを確立させる。つまり僕の話は最初にゴールを持ち合わせていないんだ。

この時点でもまだこの文のゴールが見えてない。じゃあなんで書くのかと聞かれれば、ただ単純にこの考え方をまとめたかったから。伝えるという役割を任せていない。きっと僕の悪い癖だろう。

僕は伝えるつもりなんかないのに人に話す。伝えること自体が目的じゃない。僕の考えがまとまればそれでいい。人に話す必要はないかもしれないけれど、人からの意見が役に立つことがある。だから伝える。

やはり悪い癖なのかもしれない。それでも僕は伝えるつもりなんかないのに何かを伝えようとする。

悲しい彼のお話

ある少年がいました。彼の目に映る世界はつまらないものでした。それもそのはず彼は自分を介すことでしか認識できない世界を、偽りというもう一つのフィルターを通していました。

彼が偽るようになった理由はわかりません。家を出て行った父親のせいか、はたまた話すことですら許されないクラスのせいか。しかし理由なんてなくてもよかったのです。そんなもの彼にとっては不要でした。

彼は色を求めていました。心躍るような色を求めていました。彼の目に映る世界はモノトーンでした。彼が写真家であればよかったのかもしれません。残念ながら彼にはモノトーンの価値がわかりませんでした。

そんなある時、彼は偽ることをやめました。彼はフィルターを取り除けば、鮮明な色を目の当たりにすることができると思っていました。ですが実際、彼の目に色が映ることはありませんでした。

フィルターはたしかに消えましたが、彼は自分と世界の間にあった偽りというフィルターの空間を縮めることができなかったのです。偽りは秘匿になりました。嘘をつくことはやめても、自分を曝け出すことはできませんでした。その結果焦点が合わず、彼の目に色が映ることはありませんでした。

それでも彼は色を求めていました。いや、今でも本当の色を求めているのかもしれません。自分と世界との空間を無くそうと努めているのかもしれません。けれども、彼は頼り方がわかりませんでした。世界との関わり方がわかりませんでした。手を差し伸べられても、その手を握り返すことができません。大丈夫?と声をかけられても、その声に応えることができません。

今までにも彼を助けようとする優しい人がいました。不器用な彼は助けを求める方法も、人と関わる方法も、優しさを受け止める方法もわかりませんでした。どうすることもできませんでした。

結局そのまま死んでしまいました。彼はずっと色を求めていました。それはないものねだりという言葉は不似合いです。彼は生きる活力を求めていました。もしかすると彼と世界との間に空間なんてなかったのかもしれません。かと言って彼が色盲であったわけでもないでしょう。

私が今何を言っても、答えを知ってるのは彼だけなんですけどね。

どこまでも悲しい喜劇

生きるってのは絶対的な正義なんかじゃなくて、むしろどこまでも悲しくて、それでも楽しい奴らがいたよなって泣きながら笑うような喜劇なのだと思う。

きっと死んだらダメなんてことはないんだ。自発的に死を選ぶことがいけないなんてことはないんだ。自ら死を選ぶ勇気を称賛するべきなんだ。

そうわかっていても悲しいものは悲しい。誰かが死ぬことを悲しめるほど僕はできた人間ではないけれど、僕が好意を抱いている人が死ぬのは悲しい。自ら命を経ったのだと知ったらもっともっと悲しい。

僕にできることなんてたかが知れてる。それでも僕には何かできることがあったのではないかって考えるはずだ。そうして、もっと話しておけばよかった。もっと写真を撮っておけばよかった。もっと沢山の時間を過ごしておけばよかった。そんな風に後悔する。

後悔の中で、やはり僕はできた人間ではないからきっとそいつを恨む。なんで死んだんだよ。昨日会っただろ。その時に話せよ。もっと頼れよ。僕が悲しいじゃんか。

そう、きっと死ぬことはダメなんかじゃないよ。ここは悲しい喜劇だから、こんな奴がいたんだって泣きながら笑う喜劇だから、死んじゃダメだってことはない。

でも誰かを悲しませるのはダメだ。悲しい喜劇をこれ以上悲しくするなよ。悲劇になったらどうするんだ。

なんてこともきっとない。悲しませるのはダメなんかじゃない。だってここは喜劇と約束された世界だから。どれだけ悲しくても悲劇になることはない世界だから。

それじゃあ、どうすればいい。そんなの僕だって知りたいさ。今の僕には悲しい世界をこれ以上悲しくするなよって叫ぶことしかできないんだ。

虚しいな

恋の寿命は3年らしい。けれども僕は元カノと別れて3年目ともなるのに未だに諦められていない。元カノとは9ヶ月付き合った。とすると好きになって計4年経つ。恋なんてとっくに死んでいるはずだ。じゃあなぜ僕はまだ元カノを好きなのだろうか。

それについて仮説が2つある。1つ目として“僕のこれは愛である”が考えられる。恋の寿命が3年であるのにも関わらず、まだ好きなのはそれが恋ではないからなのだと思う。

確かに僕はイチャイチャしたいわけではない。もちろんしたいが、僕は彼女のそばにいたい。一緒に笑って、わずかでもいいから僕が彼女の幸せでありたい。それを最も求めてる。

恋は自分本位、愛は相手本位。という言葉がある。彼女の幸せになることが僕の幸せであるから、自分本位かもしれない。でも好きに相手本位って無理だと思う。まあ極論どんなことでも相手本位は無理だ。自分の幸せにつながってしまう。ただ行き着く先が自分だとしても彼女を幸せにしたいって思いは本当だ。なんだってするさ。だから愛なのかもしれない。

そして2つ目“僕が恋に落ち続けている”という仮説。一般的な恋だと3年らしいけれども、僕と彼女は9ヶ月で別れた。もちろんまだ好きだった。でも恋は3年の「恋」については付き合っている状態を指すのかもしれない。そうすると僕の恋は9ヶ月で死んだ。それで終わり。

ただそれだと変なんだ。恋は3年の根拠は脳内の分泌物質。それはやはり「好き」から始まる。ともすると僕は恋に落ち続けているのかもしれない。心当たりはある。新しい彼女を見つけたり、変わらない優しさを見つけたりでやっぱり自覚好きだとする。この自覚が「好き」は3年をリセットしているのかもしれない。

ああだこうだ言ったけど、わかってるよ。僕は諦められないんじゃない。諦めたくないんだ。この気持ちを失いたくない。そう思ってしまっている。だからまだ好きなんだよ。

信頼

誰かを信じるということは自分を信じることなのだとずっと思っていた。誰かに打ち明ける時信じるのはその誰かではなくて、打ち明けて最悪な場合が起こっても自分で対処できることこそが信じるということで、その関係を信頼と呼ぶのだろうと思っていた。

でも多分違う。自分じゃどうしようもないことを相手に頼ることが信じることで、信頼なのだろう。僕はそのことに気づくまでに随分と時間がかかった気がする。

そもそも独りよがりだったんだ。思い上がりだったんだ。自分じゃどうにもならないことなんて沢山ある。自分でどうにかできるのなら頼ることなんてないし、裏切られても自分で対処できるのならそれは信頼ではなくて信仰だろう。

そのことに気づけたことは僕にとって大きなことだ。

ただ、それだけじゃ足りない。僕には致命的な欠陥がある。人に頼る方法を知らない。誰かを信じることが怖い。裏切られそうだからじゃない。失望されそうで怖い。

こんなことで悩んでいるのか。どうして今まで話さなかった。自分でどうにかできるとでも思っていたのか。甘えているんじゃないか。

そんなのはわかってる。わかっててもどうしようもないんだ。どうしたらいいかわからない。それを突きつけられそうで怖い。

優しい言葉が欲しいんだよ。頑張ったねって。言われたいんだよ。きっとまだ僕の信頼は歪んでる。頑張ったねって言ってくれそうな人を探してる。

僻み

人と関わるのが心底怖かった。誰かの幸せを背負ってしまうから。そうして自由に生きられないから。そんなのはカッコつけで、本当は自分が薄れてしまいそうだから。ただそれだけ。でもそのことがとても怖かったんだ。

誰かと深く関わるということを避けてきた。僕は“俺”を演じて、友達と仲がいいのは僕なのではなく“俺”なのだ。そうすることで人との関わりに自分の色を混ぜることを逃れた。そんなことを長い間続けてた。

でも魔が刺した。ある人と深く関わってみたくなった。関わることへの恐怖は杞憂なのではないかと思った。もしかしたらそれはある意味では正しかったのかもしれない。結局関わった結果、僕の色が薄れることはなかった。ただ僕の色は確かに誰かと混ざった。

相変わらず関わりへの恐怖は消えなかった。正確に言えば消えなかったのではなく形を変えた。僕は関わることの楽しさを知ってしまった。知った途端に滲み出た。そして僕は思い知った。人が持つ色は単なる色なんかじゃない。どちらかと言うと色水だった。僕の色が周りを侵食していった。そのことを感謝されたこともある。だけど、それが僕には大罪に思えた。

僕が関わりたいと願ったある人は濁ってしまった。混ざっちゃいけない色ってあるだろ?それが僕だった。その人の強さを僕がもいだ。

こう見えても反省してるんだ。関わりすぎてしまったんだって。僕として接していたもんだから、今更“俺”にだってなれやしない。だからその人との関わりを完全に絶とう思った。

本当にそう思ったんだよ。なのに何故かその人は誰よりも鮮明になっていた。少し見ない間に濁ってたはずの色が綺麗な色をしてたんだ。わかんなくなった。僕のしたことの是非がわからなくなった。

僕は結局、加害者になりたくないだけだった。僕が汚してしまいそうで、それがたまらなく我慢できなくて、責められたら弁解の余地なんてあるはずもないように思えて。だから関係者でいるのをやめたいって思った。ただそれも逃げのように感じて同等に罪深い行いなのではないかと考えてしまった。

加害者になったからって、ひよってさようならってあまりにも不誠実過ぎる。僕として接してしまった以上、責任は僕自身にあった。結果として僕は関係を断つことはなかった。

それでも願ってしまう。拒絶して欲しい。そうしてくれさえすれば、僕は救われる。そんなことを考えるけれど、きっと拒絶なんてされないだろう。そのことがこの上なく嬉しくて、とてつもなく苦しい。