Ms.teryさん

気の向くままに

人間になりたい

僕は僕自身のことをよく知らない。
だからこそ僕という人格は僕という人間の一部であると感じている。


よく知らない、よくわからないから、時折深い海に浮いているような感覚になる。
その感覚のせいか、より深いところに僕という人格とは別の僕が存在しているように感じる。
そういうわけで、僕という人格が僕という人間の表層なのではないかと思う。


けれども、第三者的な視点から見た時に、僕という人格が及ぼす影響というのは、ほんの一部にしか過ぎない。
無意識的な、思考や所作の偏向が、僕という人間の大部分を占めている。
そうした時、無意識的な僕が僕という人間の表層なのではないかと考える。

 

だが、この文章を書いているのは当然、意識的な、僕という人格なわけで、やはり“僕”という視点から見る方が優先されるべきであるのかもしれない。

そうした場合、僕という人格が表層である方が相応しいのだと思う。

 

しかし、僕という人格はかなり面倒くさいようで、“僕”こそを僕という人間の核としたいと願っている。あわよくば無意識的な僕さえも取り込むことを望んでいる。

つまりは、“僕”は人間になりたいのだ。第三者視点的な人間になりたいのだ。それを叶えるには僕という人格が僕という人間の核であるとした方が都合がいいのである。

 

当然のことながら、僕という人格が意識である以上、第三者視点的な人間にはなれない。無意識を意識することは不可能なのだ。仮にできたとして、果たしてそれを人間と呼んでいいのか疑問が残る。だが、今のところは叶わないと知りつつも願い続けたいと思うのだ。

造形

不確かなものを形にするとき、その輪郭がわからなくなる。

はっきりと知覚していたわけではない。
けれど、確かにそこにあるのは知っている。
どんなものか気になって、指先でなぞってみる。
とても心地いい。
肌触りのいいそれに指を走らせる。
きっとこうだろう。きっとそうだろう。

ふとした瞬間、跡しか残っていないことに気づく。

どうしようもなく怖くなる。
僕が触れていたものは一体なんだったのか。
怖い。焦る。とても怖い。
今度はそれを掬おうと思い至る。
大丈夫。怖くない。きっと大丈夫。
丁寧に手のひらで持ち上げる。
けれどもそれは、指の隙間から落ちていく。

途端にわからなくなる。
これとあれは同じものなのだろうか。
微かな疑念が侵食していく。
そしてまた怖くなる。
指先の温度、手のひらの感触。
不確かなものを形にするとき、その輪郭がわからなくなる。

現状

久しぶりに開いてみた。最近、僕にとっては珍しく悲しみに暮れる日がない。感情に浸るといった時間もあまりない。そんなこんなで書きたくなるような感情も見つからない。

これは良いことなのだけれど、とてもとても素晴らしいことなのだけれど…

僕は悲しみという感情に浸るのが割と好きなのだ。気持ちは下がるが、その時だけ自分という人間を理解できる気がするんだ。それに、僕は悲観主義者だ。そうでないかもしれないけれど、悲観主義者であると自負することに大変満足している。まあ、変態なのかもしれない。僕は悲観主義の変質者だ。

そんな僕にとって悲しみの供給が不足している今この瞬間、なんだか虚しさを覚える。そんな虚しさにうまく生きていけない人間性が出ているような気がする。

自己肯定感

特別本を読むというわけではない。好きな作家がいることにはいるが、他の人の本を読むかと聞かれるとそうではない。だから本を読む人に比べて圧倒的に語彙力が足りていない。及ぶわけがない。

そんな僕は国語が苦手だった。というより文章を書くこと自体が苦手だった。小中の頃なんか「〜だけど、〜けど…」みたいな文なんて余裕で書いていた。読み返すのも面倒で先生に指摘されて気づく程だった。言葉にすること自体が億劫だった。

でもある日、本当に唐突に僕の中にあったはずのものがなくなっていることに気づいた。そこには僕を構成していたはずの何かがあったはずだ。ああ、これがドーナツの穴みたいだってことなんだなって思った。穴を穴だけ切り取れないように、僕が存在することを証明なんかできない。それが不気味に感じた。何者でもない僕が失くなったものさえも気づかないのであれば、そのうちに消えてしまいそうで怖かった。

僕は僕のまま死んでいきたい。本気でそう思ってた。誰かを巻き込んで、ありったけの迷惑をかけて、鮮やかな紅色でそいつの世界を染めたかった。少し歪んでいるけれど、そう望んでいた僕は僕が消えることへの耐え難い恐怖に夜も眠れなかった。

僕は僕でいよう。そう思い立って言葉にしていった。自分の感情を書き出した。当然、最初の頃は酷い文章だった。それでも恐怖から逃れるために書き続けた。書き溜めて、読み返した。そうすると自然と変な文章がそれなりに伝わるようなものになっていった。

才能なんかじゃない。そんな大層なものじゃない。ただただ逃げてきた結果だ。なのに何故だか最近よく褒められる。すごいねって言われる。そろそろ認めてもいいのだろうか。僕はすごいんだって思ってもいいのだろうか。きっとそう思えることが才能への第一歩なのかもしれない。

才能なんか

追い詰められていけばいくほど、ネガティブな感情の供給が追いつかなくなる。悲しみや不幸、苦痛、逃避願望、自暴自棄、自己嫌悪。そういったものが僕に追いつかなくなる。そうして感情そのものに対する言葉が見当たらないことに気づく。

苦しくて逃げ出したいはずなのに、何から逃れればいいのかわからなくなる。けれど確かにそこには恐怖がある。無知からくる恐怖ではない。もっと具体的な恐怖で、もっと本能的な恐怖。僕はそれを知っていて、でも言葉で言い表すことができない。

 

才能が羨ましい。僕に才能なんかない。

「よく言葉にできるよね」「その語彙力分けて」「感覚的に言葉を選べてる」「さすがはポエマー」「君はすごいよ」

そんなこと言われるけれど、実際にはそんなことなくてこの感情を言い表すことができるほどの才能なんか持ち合わせていない。

 

辛い時に辛いと面と向かって言えないから、こうやって書き溜める。実際にはノートに書いたりしている。手軽に思い出せるようにスマホにおとしたりする。そうやってできるだけ負担を減らす。

でも言葉で表せない時はどうしたらいいのだろうか。こういう時は決まって壊れる。僕を保てなくなる。僕はすごくなんかない。才能があればこんなこんな感情を歌詞にでも小説にでも落とし込めるだろう。

 

誰かが言った。

厭世と多幸は表裏一体だと。

その言葉を信じて僕はまだ厭世にも立ち向かえる。