Ms.teryさん

気の向くままに

素敵な人達

高校2年間同じクラス一つ前の番号の子に言われた

「君には幸せになって欲しい。なんでかわかんないけど、笑ってて欲しい。」

 

中学の時からの友達に言われた

「君はすごいよ。他人の幸せを願ってる。君らしいと言えば君らしい。たとえそれが自分のためだとしても、君は優しい。」

 

まだ付き合ってた頃に元カノに言われた

「君は幸せにならなきゃダメなんだ。でも私の考えを押し付けてるだけだから、不幸だと思ってもいい。」

 

なんか同じこと考えてる

前回の続き。

考えたんだ。僕は息苦しさから逃れるために死にたいと思っている。けれども、僕は魂的なものがあると信じている。となると、死んでも解決にはならないのではないか。苦しいのはこの意識なわけであって、それが残るのなら死ぬのは無意味なことなのではないか。

わかってるさ、僕はただ逃げたいんだ。“弱くて脆い僕”に甘んじて、何か行動するのが怖いだけ。険しい道を進むよりもこのままがいいと望んでおきながら、不安や罪悪感、責任などに押しつぶされて痛いって叫んでるだけの馬鹿野郎だ。

僕は変わらなきゃならない。少しずつでいいから変わらなきゃならん。このままではまた後悔することになる。大切な人を傷つけてしまうことになる。それだけは嫌なんだ。絶対にもう繰り返しちゃダメなんだ。

前に進もう。茨の道でも進もう。「その先まで辿り着けば、後ろに広がる道が君の自信となる」なんて言葉はいらない。自信などというものを求めるために僕は動けない。だから、今に見出そう。僕は幸運にも何度でも立ち上がる姿を美しいと思ってしまう体質なんだ。僕自身に美しさを見出そう。

妄信

人に話すと嘘っぽくなってしまう話。

僕の母方の家系の一部の女性には見る能力がある。残念ながら(残念かどうかはわからないが)、強いその力を持った人は最近いないようだ。母によると受け継がれているわけではなく、そういうのがあるよと祖母に言われて思い当たる節があった程度のことらしい。

詳しくは知らないがいわゆる“ゆた”に近い家系なのかもしれない。母親は見えすぎるが故に身体を壊すことが多く、その能力に蓋をしたらしい。母にとってそれは自己防衛のようなものだったらしく、意識下で行われたものではないと言う。

まあ、僕の母とか家系とかは関係ない。問題は僕自身だ。あほらしい話だが、僕は小さい頃死んだ妹と遊んでいた。まだ両親が離婚する前、自分の部屋を締め切って妹と遊んだ記憶がある。何をしたのかは覚えていないけれど、妹と遊んだという記憶は確かにある。

そんなことを言ってもその妹と遊んだ記憶を死んだ後だったんだと錯覚しているだけだろうと思われるだけだろう。しかし、僕はその妹と会ったことがない。妹は生まれてこなかった。流産だった。実際は妹であるかどうかすらわからない。それでも僕は妹であると確信している。

ここまでくると僕は狂った人間だ。だって生まれてこなかった“妹”と遊んだことを心の底から信じているのだから。ただ他にも根拠はある。僕は幼い頃生前の記憶があった。正確に言うとあったらしい。今の僕は覚えていない。ここからは母から聞いた話にはなるが、僕は雲の上にいたらしい。そして僕の父親の元に行きたいと指を刺し、神様のようで男のような人に許しを得、滑り台で僕の母親のお腹へ飛び込んだ。

自分で書いてても馬鹿馬鹿しい話だと思う。でももっと不思議な話があるんだ。幼い僕が母に「お腹の中に赤ちゃんがいる」と言ったので、母はすぐさま病院に行くと、お腹に赤ちゃんがいると告げられたそうだ。その頃から僕は妹であると言っていたらしい。しかしある日「お母さん、赤ちゃんが血ごーごーしてる」と僕が言った。病院に行くと流産していたことがわかった。

どう?すごくない?信じるかどうかは君次第だけれど、僕は確信しているよ。確かに皆の知らない何かしらが存在している。僕は女ではないから力は不十分みたいだけどね。相手が何を感じているかくらいは分かると思ってる。特に負の感情には敏感かな。でもまあ、よく言えば勘が鋭いとか悪く言えば鬱病HSP、妄想癖とかってのとほとんど変わらない。

たださ、意識体が存在していると確信してるんだ。根拠なんてないよ。長々と書いたけど、これっぽっちの体験談なんて根拠になり得ないもんね。だから、これは僕の妄信だ。意識体は存在する。言い換えると、魂だとか精神だとか霊、心だとかが存在する。僕はそう言い切れる。

だからどうなんだよと言われたら、だからどうなんだろうか。実を言うと僕はみんなよりすごいんだぞって自慢したいだけだ。

ま、嘘だけど。

(でも少しほんと…)

さて、僕は何を言いたかったのだろう。僕はすごいぞーって話書いてたら何を言いたいのか忘れてしまった。これは良くない。すごく良くない。でもやっぱり思い出せないや。また明日考えようかな。もう眠い。から、寝る。

シーザーサラダ食べたい

突発的に死にたいって思った。得体の知れない苦しみから逃げ続けることに疲れたから、そいつに永遠のさよならを告げてやりたいと思った。

僕は何から逃げているのだろう。何がこんなに苦しいのだろう。もしかするとこの突発的な希死念慮は慢性的な自殺願望なのかもしれない。もう僕の周りに脅威はない。なのに息苦しさが消えてくれない。この長期的な息苦しさが希死念慮を誘発しているのかもしれない。そうなのであれば、それはきっともっと具体的な自殺願望と呼べるのだろう。

どうにか逃げようと手を尽くした。どうにか抜け出そうと必死に足掻いた。でもどうにもならない。コップに入れられた氷の隙間を水が埋めていくように、どうしたって飲み込まれてしまう。そしてそれと同じように息苦しさに自らが溶け出してしまうような感覚に陥る。

僕はこの苦しみと同じモノでできているのだ。じゃあ、逃れるもクソもない。死ぬしかないのではないか。

そう思いつく。あるいは、そう思い至る。でもまあ結局、僕は死なない。死ぬのが怖いから自ら死ねない。もしこの恐怖よりも逃れられない恐怖が上回れば、死ぬと決意できるのに。

自己

何かを考え始めて飽きたり、行き詰まったりして他の何かを考えたはずなのに、結局は同じところに戻ってくる現象に名前をつけたい

ループとも違う気がする。でも本当に不思議に思うほど、ある一つの疑問に収束する。

僕を僕と呼ぶこの自我はなんなのだろうか。

どのルートを通ってもこの問題に直面してしまう。当たり前っちゃ当たり前のことかもしれない。考えるという行為は僕という自我の元に成り立っているのだから。

まあ僕の思考回路がおかしいのかもしれない。でも、そこんところはどうだっていいや。僕は僕を知りたい。僕とは一体なんなのだろうか。ただただ純粋に知りたいんだ。

嫌いじゃないよ

3日前、花火を見た。

名前は知らないけれど下が勉強机を置いたりできるスペースがあって、その上がマットレスを置けるようになってる二段ベットみたいなので横になってると、どーんと音が聞こえた。

初めの方は歩道と車道の間にある側溝の蓋の上を人が歩いた音かと思った。けれども頻繁になるようだから雷が鳴っているのかと思ったが、今日は一日晴れの予報だった。なんだろうと思っていると母がベランダに出て、花火だよって言った。

久しく花火を見ていなかった。花火の音も疎遠だった。このご時世だから仕方のないことだろう。久しぶりに見る花火はこれほどかって思うほどに綺麗だった。初めは喫茶店の垂れ流しの音楽のような花火が、クライマックスに近づくと転調し、ラスサビには遠くから見てもわかるほどに大きな枝垂れ桜のような花火が上がった。

綺麗だなって思うのと同時になんとなく悲しくなった。もう終わったのかって。垂れ流しの音楽だったものが、激しく咲き乱れ散っていきもの寂しさを残していった。これが古来日本から伝わる趣なのだろう。やはりなんと美しく、なんと悲しいものなのだろうか。

趣の精神について、僕は全然詳しくない。ただ余韻に浸る文化は嫌いじゃない。今はもうこの世にないものに思いを馳せるという行為は美しいものに感じられる。しかし、だからこそ悲しいものだなと感じてしまう。

 

楽しいという感情は楽しかったという記憶だけを残せばいいものの、次はないのかなという欲求を生み出す。余韻に浸るのはその欲求への諦めなのだと思う。次はないのだから、今この瞬間を胸に刻もう。この瞬間というけれど、胸に刻もうと思うのは大抵物事が終わったのこと。刻まれるのはかけがえのない今なのではなく、本当はかけがえのない少し前だということ。

大切な時間というのはその瞬間に大切だと気づくことはできないのだと思う。思い出すという行為を経て大切な時間になる。それが趣ということなのだろう。

 

悲しくはないだろうか。楽しい思い出でもその先には寂しさが待っている。余韻に浸っても、正確に思い出しても気休めにしかならなくて、やはりその先にも寂しさがいる。

生きるということの中に今この一瞬はほんの数パーセントで、残りの大半はその寂しさが纏わりついている。なんて悲しいのだろう。楽しかったことは簡単に思い出せるのに、楽しいことを考えるのは難しい。

そのくせ、逆の場合では成り立たない。辛いことは簡単に思いつくし、辛かったこともたくさんある。楽しい記憶は寂しさを生み、辛い記憶は辛いままの状態でいる。

 

なんて悲しい世界だというようなことを言ったが、その世界に関しても僕はあまり嫌いじゃない。悲しくも前を向いている姿を美しいと感じてしまうから。

余韻や思い出に浸る、すると確かに寂しさを生むけれど活力にもなり得る。その過程も美しい。そういった具合が嫌いじゃない。

ラブソング

僕のこれは片想いと呼べるほどの綺麗なものなんかじゃなくて、私欲に塗れた未練でしかない。

それなのに一丁前に片想いラブソングを聴いて、胸が締め付けられて、涙が止まらなくなって、あぁわかるなあって、僕のものにならないかなって思ってしまう。

苦しいのも悲しいのも痛いのも辛いのも全部全部僕のせいで、僕自身で捨てたもので、それを今更欲しいだなんて虫のいい話で、どうしたらいいんだって無気力に自暴自棄に陥る。

 

友達に好きな人誰?って言われたから、まだ元カノが好きだよって答えた。すると、すごいねって言われた。

一体何がすごいのだろうか。

僕は彼らの方がすごく見える。羨ましいくらいだ。どうして恋という感情を無くすことができるのか。教えてくれよ。本当はお前らも僕と同じなんじゃないのか?

ラブソングはいつだって悲しいくせに、なんでお前らは楽しそうなんだよ。ラブソングで感傷に浸るくせに、なんで恋を諦めたかのように振る舞えるんだよ。

 

なあ、なんで未練あるラブソングは流行らねえの。