Ms.teryさん

気の向くままに

行動基準

愛している人がいるとする。

その人をどのくらい好きなのか言葉で表すのは、この世で猫に名前をつけることの次くらいには愚かな行為だ。

(飼い猫に名前をつけるのは愛情表現や躾など役に立ち、便利であるので必要ではある)

猫に名前なんてつけたら、自由気ままではないだろう。

猫という生き物の詩的美しさは野良猫の中にある。

名前はそれを縛り付けてしまう。

そして、愛を言葉で表すのもまた愛の詩的美しさを損ねてしまう。

 

もっと単純にいこうか。

好きだよって言葉にしてしまえば、安く聞こえてしまうんだよ。

それになぜ好きなのかという問いが愚問だね。

それこそが愛の詩的美しさだろう。

「月が綺麗ですね」

「死んでもいいわ」

その美しさの全てが詰まってると言っていい。

何故好きなのかではなく、我君を愛すでもなく、月が綺麗ですねって。

私もあなたのことが好きですではなく、私はあなたのものよでもなく、死んでもいいわって。

 

なんだかんだ言ってきたけど、僕は愛を言葉で表現したい派なんだ。

ただそれがくだらないことで、愛の詩的美しさを損ねてしまうのも承知の上。

それでも僕は言葉で表現するべきだと思う。

これは愛に限った話ではなくって。

自分自身の感情を言葉で表しておきたい。

それを何かに残しておきたい。

忘れちゃうのはなんだか悲しい。

それに僕は結局忘れるとしても、忘れないようにと尽くすことに詩的美しさ以上の美しさを感じる。

だから、言葉にする。

それを伝えるかはまた別の話だけど…

「生きてるだけでえらいよ」

聞いて、私さ、この前自転車にぶつかりそうになったの。
おじさん怒って、「危ねえだろうが!前見て歩け!」って。


でもさ、なんか無理なの。
顔上げる気力がないの。歩く元気もないの。
でも帰んなきゃいけなくて、足って勝手に進まないんだなって思った。
横断歩道のシマシマ、ひとつ越えるのにも3歩かかるの。


最近毎日こんなで。
ここにガム落ちてるなとか。
空が晴れてるのか曇ってるのかすらわかんないんだけど、そういえば、昨日気付いたんだよね。
マンホールさくらだったんだー。

 

聞いて、たまにね、頑張ってみようって思う日もあって、でもやっぱ無理で、電車で泣いちゃって。顔ぐしゃぐしゃになっちゃって、こんなところで声出すわけいかないから我慢するんだけど、鼻も出てきて、しんどくて、うぅ、って。
当たり前だけど、誰も助けてくれなくて。私だけ一人みたいな感じした。
駅着いたから無理やり降りたんだけど、しばらく動けなくて

 

ホームの椅子に座ってたのね。
そしたら高校生の男子がわーってきて、むこうで漫画の話してるわけ。
それが聞こえてきちゃって。
私もその漫画好きで読んでたんだけど、今度アニメ化するんだって。

 

聞いて、私ね、誰にも言わなかったの。
言えなかったんだけどさ。
なんか、言っちゃったらさ、こんなの大したことないみたいな感じして。
みんなもっと辛いし、ほら、世界とか見たらさ、食べるものとか寝るとことか困ってる人だっているわけじゃん。
そういう人たちと比べたらさ、私すごい幸せじゃん。


でもさ、そういうことじゃないのよ。
なんでかわかんないけど、なんか、すごい辛くて。毎日毎日辛くて。
起きるのもきつくて、でも寝るのも寝れなくて。
この前、どうしようもなくて、心がぐーってしてたら、隣の隣の席の子がね、どうしたのーって。
話聞くよーって。
普段そんなに話さないんだけど、なんか、ばーって全部話しちゃって。
わーわー泣いちゃって。
そしたらね、その子ね、そっかそっか、って。
背中なでてくれて、「えらいよー、生きてるだけでえらいよ」って。

 

生きてるだけでえらいよ

歌 ReoNa

歌詞&音楽 傘村トータ

雨が好きだ。

匂い、音、感触、軌跡、どれをとっても素晴らしい。

不思議と鼻に残る雨の匂いは、あの日を思い出させる。周りの音がかき消され、世界が遠のいていく。そして雨は僕の肌を打ち、真っ黒く染まった心にまで染み渡る。このまま溶け出してしまいたい。降り注ぐ雨に焦がれる。

 

言っててなんだけど、クサいな。

こいつクセェこと言ってんな。

まあ、いいでしょ。

どうせ独り言なんだからね。

 

でも、大体の場合雨は背景なんだ。

仕方のないことだと思う。

もちろん雨のその姿が好きではあるが、雨によって呼び起こされる記憶や気持ちが好きでもある。

主観が入れば、背景となる。

だから、仕方のないことなんだ。

 

とは言っても、僕は悲しいね。

雨ってのは背景にされてしまう上に、大抵嫌われの対象となってしまう。

ほとんどの人は気分が下がると言う。

それもわからなくはない。

色鮮やかで活気に満ちた清々しい晴天を見て気分が上がるように、暗く周囲の色や感情ににまで干渉していく曇天を見て気分が下がるのも、まあわかる。

でもやっぱり僕は悲しいね。

 

アンダードッグ効果かもしれない。

嫌われてるやつを応援したくなってるだけなのかもしれない。

こいつのいいところは僕だけが知っていて、知らないやつらは可哀想だって優越に浸っているだけなのかもしれない。

それを否定しようとは思わないよ。

 

ただ雨が背景であるのは、いささか遺憾だね。

それも悲しみの背景であることについて、僕はすごく悲しい。

雨が創る世界は綺麗なんだ。

あまり現実味がない。

すぐそばにいる人の話ですら聞こえづらい。

すぐ目の前にある木の色がわかりづらい。

すぐ近くの飲食店の匂いがしづらい。

雨は独りの世界を創る。

過去でも現在でも未来でも。

けれども、どこへ行っても独りなんだ。

ただこの独りはすごく優しい。

インターネットといういつでも繋がれる世界における満たされることのない孤独。

こんな独りなんかよりずっといい。

現実味がないと実感できるような現実味がある。

 

そう、雨は世界を創る側なんだよ。

その世界に僕らがいるの。

どちらかと言うと雨が主役で、僕らが脇役じゃない?

その世界の中では確かに僕らが主役だろうけどさ…

でも物語は物語として評価されるべきではあるけど、その物語を創作した作者も評価されるべきなんだよ。

こんな悲しみに溢れた世界を創った神様が崇められるように、優しい孤独を与える雨が崇められたっていいだろ。

いたいのいたいの、とんでゆけ

「私、死んじゃいました。」

健康体そのもののような少女は言った。

とても死んだようには見えない少女。

しかし僕には彼女が死んだという確信があった。

他でもないこの僕が彼女を殺したのだから。

飲酒運転中の交通事故。最悪だ。

しかし、幸か不幸か、少女は出来事をなかったことにできると言う。

厳密に言えば、物事を“先送り”できるらしい。

少女の死まで10日間の猶予。

この10日を少女は人生をめちゃくちゃにした人たちへの復讐へと捧げる。

「もちろん、手伝ってくれますよね。」

拒否権なんか僕にない。

殺した僕と殺された少女の復讐劇。

 

 

んー、やっぱりまとめるのは難しい。

というわけで三秋縋さんの『いたいのいたいの、とんでゆけ』を読んだ。

これも読むのは2回目。

三秋さんの本は大体読んでる。

読んでないのは『三日間の幸福』くらいかな。

三秋さんの本に共通してるのは、穴の中の微かな幸せを描いているところ。

人生には穴がある。

大きな穴や小さな穴、深い穴、浅い穴、また落とし穴なんかもあるらしい。

自力で出れるのなら構わないが、出ることが不可能とも思えるほどの穴がある。

そこから這い上がるお話ではなくて、その穴の中の小さな幸せを描いている。

 

だから、大抵はハッピーエンドとは言えない。

虚構の中だけでもいいからハッピーエンドで終わるって欲しいと思う人もきっと少なからずいるだろう。

でも、三秋さんの物語はハッピーエンドには似合わない。

いつも結末は幸せではないけど、最悪っていうわけでもない。

なんて説明したらいいかわからない…

 

まあ、どうだっていいや。

 

 

この本の中で、結局は赤の他人というような内容が出てくる。

赤の他人なのだから、“人のために”だなんて無理に決まっている。

もし“人のために”が成立するのならば、自分の幸福の同一線上にある場合だけだ。

 

きっとそうなのだろう。

昔からずっと考えていることなのだが、“人のために”動ける人が本当にいたとして、その人を“人のために”動いていると言えるのだろうか。

人のために動いた成果に喜ぶこともなく、人のために動いた自分に酔いしれることもなく、人のために動いた時間を悔いることもなく…

そんなのを人と呼んでいいのだろうか。

どちらかと言うと機械に近い気がする。

 

やはり、自分の理想が“人のために”行動することという人はいなくもないかもしれないが、本当に完璧な“人のために”動く人などいないのかもしれない。

いたとしても、僕はうまく想像ができないな。

いたらすごいとは思う。

けど、同じくらいには気持ち悪いって思う。

 

人に優しくなりなさい。

なんて家でも学校でも、なんなら社会でも言われるけれど、そんなのは詭弁だろう。

人の幸福がお前の幸福だって強要されてるようなもんだ。

自分の幸せを追い求める人になりなさい。

僕はそう言われたかった。

危うさ

泣こうって思ったら泣けるようになってた。

 

別に悲観することはない。

ただそうなっていることに気づいた。

何も悲しくなんかない。

でも、泣こうって思ったら泣けるんだ。

 

昔は悲しみの供給が必要だった。

辛い時、どうしても泣けなかった。

泣ける話を検索して、2つか3つ読んだ後やっと泣けた。

泣くまでに1時間はかかった。

 

そんな僕がすぐ泣けるようになっていた。

なんだか感慨深くなっちゃった。

僕は自分のために泣けるようになったんだ。

すげえだろ。

 

ただ少しね、思うことがあるんだよ。

僕は悲しみに触れすぎたんじゃないかって。

僕にとって悲しむことは美学と言っていい。

だったら触れることに問題はないように思われるかもしれないけれど…

美しさとは毒だ。

美しさに魅了されてしまえば、正しい判断がつかなくなる。

何に基づいて正しいのかはわからないが、後から後悔することになる可能性が高い。

 

そういった意味では今の僕の状態は危険と言えるかもしれない。

悲しみに触れすぎたせいで、悲しみを引き出すことができるようになった。いや、なってしまった。

 

 

これからどうしようか。

危険とわかってはいつつも、僕は僕の信じるものに従うことにしている。

例えば先ほど述べた美学、またはルールや信仰など。

僕の感情に従ってると言ってもいい。

危ういと理解していても、それに従う理由がない。

僕は理性よりも感性を優先している。

 

どちらか一方に従うにしても、一長一短。

まあ、ほどほどに両方が1番いいのだろうけど…

楽観的な悲観主義者

生きづらい

そう思っている人ならなかなかに多い気がする

生きていることを悔やんでいるような、生きることに絶望しているような。

でも、大抵は諦めている。

 

どうせ死ねない。

どうしようもないが生きるしかない。

生きるしかないのだが…

生きているのが辛いのだ。

 

どうもそういう声が多い気がする。

もしかすると、我慢の類義語は諦めではないのかもしれない。

真辺は言った。

「諦めているなら、何も感じないはずだ。でも、怒ったり悲しんだりするならそれは単なる逃げだよ」

(確かこんな内容、間違ってたらすみません)

 

諦めてしまえば、なんだって我慢することができる。

僕はそう信じているけれど、きっと真辺が正しい。

だって僕は生きづらいと感じてしまうことがあるのだから。

 

 

だからこそ、僕はルールを決めようと思った。

 

生きづらいのは僕自身のせいだ。

 

ルールというには似合わないかもしれない。

どちらかと言うと一種の幻想だ。

そう思い込むようにしようってことにした。

 

するとね、僕の弱い部分が浮き彫りになった。

僕は逃げて逃げて逃げ続けた結果、逃げることしかできなくなってしまっている。

 

ケイが言った。

「弱さは心地がいいんだ。弱さを認めさえすれば、簡単に受け入れられる。でも、逆に弱いと認めなければ諦めないでいられる」

(確かこんな内容、間違ってたらすみません)

 

つまりはさ、僕の場合についてになるのだけど、弱いと認めたことが悪かったんだと思う。

僕は弱いから逃げよう。

この思考回路も悪くはない。

ただ僕の場合、思考回路が省略され、反射と化していた。

だから、生きづらい。

諦めて、弱さに甘んじて、逃げることしかせずにいたのが悪かったのだと思う。

 

沢山自分語りしておいてなんだが…

「生きづらい」

「なら、死ね」

なんて言うのは簡単だ。

 

あたりまえだけど人には人の辛さがある。

僕の生きづらさは僕だけのものだし、僕も誰かの生きづらさを完全に理解することはできない。

だからこそ

「生きづらい」

「大変だったね」

そう言って背中をさすってあげられるような大人に僕はなりたい。

死ぬ可能性

昨日、僕は死んでいたかもしれない。

想いを寄せる人に誕生日プレゼントを渡して、買い物に行って、二人でアイスを食べて、バス停でばいばいって別れた帰路の途中に死が転がってた。

 

生きている限り死はずっと付き纏うものであって、死んでいたかもしれないというのは毎日のようにあるはずなのだが、ここでいう死んでいたかもしれないというのはそれがわかりやすく体感できたということ。

 

家の近くの交差点。

押しボタン式の横断歩道。

いつも通りの帰り道だった。

 

僕はボタンを押し、スマホを見ながら青になるのを待っていた。

すぐに青になった。

僕は前へと視線を移し、進もうとした。

すると右側からエンジンの音が聞こえた。

渡るにはあまりにも不自然な音だったから、足を止めて右に視線を向けた。

よそ見をしていたのだろうか。

大型トラックが僕が渡ろうとした横断歩道を横切った。

止まっていなければ確実に轢かれていた。

あの距離ではブレーキは絶対に間に合わない。

 

僕の目の前を横切る瞬間、トラックの運転手が申し訳ないって身体中で表現していた。

死んでいたかもしれないのに、笑っちゃった。

だって彼があまりにも必死だったから。

 

もし僕がそのままスマホを見ながら飛び出せば、轢かれていたよね。

ただ僕はそんなことはしない。

僕のルールだ。

道を渡る時は道に注意を向ける。

自分が危ないからってのもあるけれど、ちょっと違う。

僕は不意に訪れる死が怖いんだ。

死ぬなら自分で死にたい。

道を渡る時、道に注意を向け、スピードを出して突っ込んでくる車を見ながら今死んでもいいか考える。

死にたくなったら飛び出そうってね。

まあ飛び出したことはないのだけど…

 

 

あ、そうそう。

ハワイでは面白い法律があるんだ。

横断歩道でスマホを見てはいけない。

もしかしたらアメリカ全体で言えるかもしれないけれど、流石に全部の州はわかんないや。

見つかると罰金があるらしい。

よく日本人が引っかかるから気をつけるように先生に言われた。

 

ま、そんなことは置いといて

死にそうになった。

でも、生きてた。

ただ僕は本当に足を止めてしまってよかったのかって考えた。

一瞬の出来事だった。

僕が足を止めたのは本能によるものだろう。

僕は死ななくてよかったのか。

絶好の機会を逃したのではないか。

 

しばらく考えてわかった。

僕はまだ死にたくない。

生きていたい。

 

結果として僕の選択は間違っていなかった。

でも、次からはきちんと選択できるように備えておこう。