Ms.teryさん

気の向くままに

友達

友達って言葉に引っかかることがある。

誰しもが一度は考えたことがあるはずだ。自分とこいつは友達なのか。友達とは一体どこからがそうなのか。その疑問が解決されないまま、友達ってどこから友達なのかわからないよねって会話と遭遇する。「私は君のこと友達だと思ってるよ」「私もそう思ってる」「よかった。じゃあ友達だ」そうやって曖昧なまま着地する。

友達とは両方がそう捉えていれば成立するものだという着地点はいささか問題があるように思える。友達だと両方が認識するというのは、友達であることの最低条件のように感じる。

友達であるという証明において、“沢山の時間を共有すること”や“気兼ねなく会話できること”などとあげても、相手が友達と思っていないのなら友達だというのには難しい。その場合、友達のような都合のいい関係に付き合わされている人が許さないだろう。

逆に両方が友達であると認識しているだけだとすると、それも友達であるか怪しい。その条件だけで時間や趣味の共有のない関係があったとするなら、友達と呼ぶにはやはりおかしい。

多分、両方友達と認識した上で時間と趣味などの共有をした関係を友達と呼ぶのだろう。

それでも友達という言葉に引っかかる時がある。上記の条件を突破してもなお、友達という言葉が似合わないと感じることがある。少なくとも僕にはそう言った人が何人かいる。友達と思いたくないことに対してなんとなく申し訳ない気持ちにもなる。

きっと友達かどうかってのは関係ないんだ。僕はその人として接していたい。分類なんてどうでもいい。個人として接していたい。そういった思いが友達と呼びたくない原因なのだろう。もしかしたら僕は友達という言葉を信用していない。だからそんな安っぽい言葉で呼びたくない。

醜態

僕の話すことの半分は嘘だ。その後、僕の話したことの8割は嘘になる。そのことについて僕は別になんとも思っていない。

愉悦や恐怖、安堵、注目などの目的の違いはあるはずだが、多くの人が嘘をつく。そうしてついた嘘に織り交ぜた本当も時間が経てばそうではなくなる。それが普通なのだろう。まああくまで僕の個人的観測ではあるが…

でもたまに全て本当に話す時がある。それは大切な人の前かもしれないし、全く知らない赤の他人の前かもしれない。知り合い止まりの人や不特定多数の人の前かもしれない。人によって本音を話せる人も場所も違う。

僕は本音を話して欲しいとは思わない。僕だって嘘を交えてる。だから嘘でいい。それで満たされるのなら嘘で全然いい。どうでもいいクソみたいな会話で笑い合えればいい。

もちろん、本音を話してくれてもいい。本音を話す人にしてくれたなら、僕も本当の気持ちと事実で話そう。楽しい嘘で固められた会話に比べたら、ひどく醜い会話になるかもしれない。

「お前そんな嘘ついてたのかよ」「お前こそそんなこと隠してたのかよ」「てか、ずっと騙してたんだな」「それはお互い様だろ」「それもそうだな」

そうやって笑えばいい。それはそれで悪くはない。

最後に一つ僕の嘘を教えようか。とびっきりの嘘を一つ。僕の場合、知り合いがいるがその他大勢の赤の他人のいるプラットホームの方が本当を話しやすいんだ。

僕はいじめられていたと話すけれど、実際は小中の時クラスでいじめられてたわけでも、嫌われていたわけでも、浮いていたわけでもない。

あ、もしかしたら浮いていたってのはワンチャンある。でも、なんなら僕は割と色んな人と喋ってたし、友達だってそれなりにいた。

いじめられてたっていうのは単なるかまってちゃんなのさ。その方が楽だろ。いちいち説明するのも面倒くさい。たった数人からの嫌がらせで落ち込んでたなんてダサいだろ。それにいじめられてたって言った方が心配してくれるだろ。

結局はそんなもんなんだよ。ひでえだろ。笑ってくれ。そんでもし今度僕に本当を話すことがあったなら、こいつは酷いなって笑ってやるよ。

欲求

生きる理由ってなんだ。絶対的な生きる理由ってなんなんだ。僕はそれがまだ欲しい。どんな状況でも成り立つ生きる理由が欲しい。残念ながら、僕の持つ生きる理由は死ぬ理由にもなる。あるいは死ぬ理由が生きる理由になり得てしまっている。

もっと本能的な生きる理由が欲しい。理由なんて言葉では説明できないような、理性など簡単に捨ててしまえるような生きる理由が欲しい。

ごめん

僕は過去に縋ってる。今でもなく未来でもなく、僕の前にあるのは過去。目を背けたい時間もずっと浸りたい思い出もある。全部ひっくるめた過去が僕の前にはある。

僕は今と向き合えていないんだ。昔から目を逸らしてきた。6歳の時には両親の離婚を、9歳の時には友達からのいたずらを、11歳の時には不登校になったきっかけを、16歳の時には恋人との別れを。見て見ぬ振りをした。そのくせ、過去になった途端に言い訳にした。

辛い今に目を背け、苦しかった過去を盾にしてきた。嫌だな。正直に言って、もう嫌だな。こんなことやめたい。やめたほうがいい。そんなことはわかってる。でも、過去に縋る以外の生き方がわからないんだ。杖なしじゃ辛い今を歩けなくなった。苦しい今を立てなくなった。やるせない今を起き上がれなくなった。

わかってる。わかってんだ。そんなことは甘えでしかない。僕のためを思って行動してくれる人たちに失礼であることもわかってる。

馬鹿らしいくらいに負の連鎖だよな。今を見て、苦しくなって、目を逸らして、過去に縋って、その過去に裏切られて、自分はダメだって、でもそんなことわかってただろって。ここから抜け出す方法が見つからない。

活力

やりたいことがわからない。任意と必須と興味とに引き裂かれて、そんなもの失くしてしまった。昔は全部好意の上に成り立ってた。なのに今じゃ興味だけになって、残りは苦痛の上。きっとそれが良くなかったのだろう。

やっと見つけたはずの自我は、行き場がない。ずっと欲しかったはずなのに、苦しみの受容体でしかなんだよ。桿体も錐体も役目を果たさない。僕の目に映るのは色も光もない世界なんだ。

どうやって頑張ればいいんだよ。未来を信じれるほど、僕は楽観的じゃない。それなのに今に美しさを見出せねんだ。

意味

意味がありそうでなさそうなものほどいい。スマホ片手に下を向く子供で溢れる公園の滑り台とか、ここがどこかわからないほど字が消えかかったバス停の看板とか。アイスの売り上げ絶好調のコンビニのレジにある肉まんなんか最高だ。

正直に言って疲れた。生きることがってのは壮大かもしれない。でも、好きなものがつまらなくなった。

僕は好きなことをする時間が好きだ。好きなことを学ぶことが好きだ。好きなことをもっと好きになることが好きだ。

なのに、意味を強いられた。好きという原動力以外の意味を強いられた。瞬間につまらなくなった。好きが苦痛に変わった。苦痛が嫌悪に変わった。嫌悪が拒絶に変わった。この感情を知ってしまった。もう好きには戻れないと悟った。

そんなに意味が大事なのだろうか。なら、強いられた意味に意味なんてあるのだろうか。結果として意味がなかったのではないか。意味不明な行為だったのではないか。

僕は感情的に生きていたい。なんでかなんてどうでもいい。なんとなくそうしたい。そうやって生きてたい。

素敵な人達

高校2年間同じクラス一つ前の番号の子に言われた

「君には幸せになって欲しい。なんでかわかんないけど、笑ってて欲しい。」

 

中学の時からの友達に言われた

「君はすごいよ。他人の幸せを願ってる。君らしいと言えば君らしい。たとえそれが自分のためだとしても、君は優しい。」

 

まだ付き合ってた頃に元カノに言われた

「君は幸せにならなきゃダメなんだ。でも私の考えを押し付けてるだけだから、不幸だと思ってもいい。」