Ms.teryさん

気の向くままに

アヒル

いつか書いたけれど、僕は酷い嘘をついている。いじめられていたっていうヒロインを気取りたいがための嘘。ただあながち間違っちゃいないのかも。だっていじめられたと言えばそれはいじめになるという社会が半分だけ出来上がってる。いじめじゃないつもりでも加害者になる。だから僕が被害者面をしたらいじめが成り立つ気もする。

まあそんなことどうでもよくて、僕はいじめられていなかった。確かにある特定の人1人から陰湿な嫌がらせを受けたことはあるが、いじめというイメージと比較すると大した問題ではなかった。僕には優しい友人が割といて、積み上げてきた信頼があった。そいつが何かを言ったとしてもただ仲が悪いのだろうということで済んだ。それに僕が一方的に攻撃を受けてるわけでもなかった。それなりに仕返しもした。どちらかというとあっちの方が被害が大きい。

もともと朝一緒に学校へ行くくらいには仲が良かった。似たような系統の友達が多くそれなりに遊んでもいた。僕は友達だと思ってた。けれど、他の友達から僕をよく思っていないという旨の話を聞いた。それだけならよかったが、彼は僕の背中に中指を立てていた。露骨な仲間はずれを企てていた(本当に友達に恵まれていて、未遂に終わった)。僕のヘアピンを笑った。

そりゃ怒った。そいつの秘密をバラしてやった。好きな人が誰だとか家庭内の事情が最悪だとか。気づいたらそいつとは縁が切れた。まだ誰がやったかわかんないけど、僕の上履きをトイレのゴミ箱に捨てたのはこいつだと思う。だから、いじめではないんだよ。でも僕はそれをいじめられたと話す。ヒロインを気取りたいから。そうした時のメリットが多いから。

もちろん間違ってる。間違ってることに対して開き直ってる。人間様なんて所詮そんなもんだろ。汚ねえ面に一生懸命ウグイスの糞塗りたくって、私は間違っていませんよってどうにかしてでも正当化しようとする。そして僕はそれを見下してる。見下してる悦に浸ってる。

ほんと酷い話。こんな話を書いてなんの意味になるのか。伝えるつもりなんかないのにここまで書ききってしまった。全く面白いよね。薄汚れた部分なんて見せたくないはずなのに、僕は今までにたくさん書いてきた。きっと罪悪感でも感じてるのだと思う。1人で背負うには重すぎる。誰かに見られているかもしれないくらいの緊張感に許しを乞おうとしてる。

僕は僕なのだ。

高校より前の記憶があやふやなのだけど、たぶん僕という自我の形成が高校になってからだったことが一番の原因かもしれない。なんとなく昔の僕は僕であって僕じゃないような気がする。これは自分とは何かということに繋がるのだと思う。きっと僕という自我は自分ではない。

あたりまえっちゃあたりまえ。僕が自分を理解しているわけない。まあ僕の認識にはなっちゃうけれど、数学的に言うと僕という人間を構成するという全体集合Uの中にある部分集合Aが僕という自我なのだと思う。つまり僕という自我(部分集合A)の中に高校より前の記憶(要素)が含まれていないということなのだろう。含まれていないと言い切るのも変な話だが、確実に占める割合は小さい。

ここまで軽く僕という自我について考えてきたのだけど、それを踏まえて考えたいのは“考える”ということ。考えているのは僕という自我なのか、それとも僕という人間なのかということ。もちろん答えなんてわかんない。“考える”について考えたいが、きっとそれは“僕の考える”にしかならない。まあとりあえずここからは“僕の考える”について考えたい。

考えているのは僕という自我なのか、それとも僕という人間なのか。きっと二つあわせて正解なのだと思う。第一段階として僕という人間が考えて、次に僕という自我で考える。その時僕という自我は前段階を考えていると認識できるかと聞かれれば、たぶん認識していない。そういう次元じゃない。認識できるのは第一段階が終了して、何かを思いついた状態となった時(僕という自我で考え始める段階になった時)になると思う。そのことについても、なんとなく僕であって僕じゃない感覚と出会う。考えることがポッと現れるような感覚になる。

僕は僕という自我でしかない。たぶん完全な僕と呼ぶことはできない。僕は僕という自我と僕という人間とを区別してしまっている。僕という自我に置いて考えるという行為は一般化した言葉の上でしか成り立たっていない。“考える”について考えてみるとそんな気がする。

そして僕という自我は僕という人間に興味を持っていない。むしろこの自我はこの人間を食い殺そうとしている。部分集合Aに含まれない他の要素を見て取捨選択して、僕という自我だけで完結させようとしている。そのことについて僕という自我はもちろん悲しいとすら感じていない。僕(という人間)は僕(という自我)なのだ。きっと生きようとする次元が違うんだよ。

生きたい

自分ではどうすることもできない無力感とどうにかなってしまえという自暴自棄に、無知からくる感情がかき消される。不安や恐怖といったものが全て逃避へと昇華される。楽観と悲観とが乖離する。悲観が無関心へと変わる。そうして今の僕が出来上がる。

受験のストレスと言えばそうなのかもしれない。でも、そんなものはないと言い切ってしまえるほどには無関心に蝕まれた。自分が自分ではないような感覚。そもそも自分というものが存在しないような感覚。なんだか懐かしく感じる。

このままだと繰り返すだけなのはわかっている。自然と死にたいと思うようになって、もう終わりにしてしまおうって、でも結局死にきれなくて、死ぬことすらもできないのかと思い知らされる。

もしかしたら前とは違うのかもしれない。僕は死にきれないことを知っている。生という正義を突きつけられるのかもしれない。どちらにしろ絶望することは目に見えている。

それでもやはり僕はまだ非現実であると捉えている。何かを変えることを諦めている。

大人

勉強が嫌いだ。
でもそんなことを言ってしまえば、ろくに社会にも出てないくせに甘えるんじゃないと“大人”に言われる。社会に出るのであれば勉強は必須。頑張れない奴らに社会なんか乗り換えられない。
“大人”達は口を揃えて言う。
「だから“子供”なんだよ。いつまでも“子供”のままでいられると思うなよ」

 

僕は頑張れない。もちろん、少し語弊がある。正確に言えば、“大人”達の頑張るというのが嫌いだ。その後ろには“嫌だけど”が隠れてる。嫌だけどやることが頑張ることの正体なのだ。

頑張れない奴らに社会なんか乗り越えられない。それは嫌なことが我慢できない奴らは生きていけないということなのだろう。

果たしてそれが正しいのだろうか。僕はそれを是としてしまっていいのだろうか。そんなわけがあるか。嫌なことを我慢するのはごめんだ。だから“大人”が嫌いなんだ。“頑張る”が嫌いなんだ。そして“勉強”が嫌いなんだ。

“勉強”が嫌いなんてのは甘えだという“大人”は、嫌なことでも我慢して“頑張って”きたのだろう。それは素晴らしいことだと思う。そのようにしていけば社会をうまくやっていけるのだろう。

けれど僕が聞きたい言葉なんかじゃない。“勉強”も“頑張る”も、その後ろに“嫌だけど”をつけたのはお前たち“大人”だろうが。なんで“楽しいから”をつけなかったんだよ。我慢することが正しいわけないだろ。

勉強だって新しいことの発見だ。頑張ることだって新しい世界への挑戦だ。大人はそういう道を示すべきじゃないか。

勉強が嫌いだと言う僕はそりゃ甘えてるさ。だって社会を知らないから。でも大人は僕らを知ってるだろう。経験しただろう。

僕は好きなことをしたい。嫌なことなんかしたくない。勉強も頑張ることも嫌いだ。でも発見と挑戦は好きだ。知ることが楽しいんだよ。ただ少し怖い。知らないものに触れるのが怖い。だから逃げてしまうこともある。そんな僕らを突き放すのではなくて、手を差し伸べてくれよ。怖いかもしれないけれど楽しいよって言ってくれよ。そうじゃなきゃどう“頑張れ”ばいいんだよ。

伝える

何かを伝える時、どうしても長くなってしまう。相手に100%の理解なんて求めていないが、誤差が少しでも小さくなるよう補足を多用する。でも残念なことにそうすると長くなる上に、何が言いたいことなのかわかりづらくなる。

ここでの文章だってそうだ。なくてもいい文が沢山ある。大抵500文字を超える。1000字以上なんてのもある。その原因はきっと僕の話し方にある。

何も考えないで話す癖がある。とりあえず何か話して、そこから考える。思いついたら話す。間違いだと感じたら訂正する。そしてもう一度正しいのか吟味する。そうして考えを確立させる。つまり僕の話は最初にゴールを持ち合わせていないんだ。

この時点でもまだこの文のゴールが見えてない。じゃあなんで書くのかと聞かれれば、ただ単純にこの考え方をまとめたかったから。伝えるという役割を任せていない。きっと僕の悪い癖だろう。

僕は伝えるつもりなんかないのに人に話す。伝えること自体が目的じゃない。僕の考えがまとまればそれでいい。人に話す必要はないかもしれないけれど、人からの意見が役に立つことがある。だから伝える。

やはり悪い癖なのかもしれない。それでも僕は伝えるつもりなんかないのに何かを伝えようとする。

どこまでも悲しい喜劇

生きるってのは絶対的な正義なんかじゃなくて、むしろどこまでも悲しくて、それでも楽しい奴らがいたよなって泣きながら笑うような喜劇なのだと思う。

きっと死んだらダメなんてことはないんだ。自発的に死を選ぶことがいけないなんてことはないんだ。自ら死を選ぶ勇気を称賛するべきなんだ。

そうわかっていても悲しいものは悲しい。誰かが死ぬことを悲しめるほど僕はできた人間ではないけれど、僕が好意を抱いている人が死ぬのは悲しい。自ら命を経ったのだと知ったらもっともっと悲しい。

僕にできることなんてたかが知れてる。それでも僕には何かできることがあったのではないかって考えるはずだ。そうして、もっと話しておけばよかった。もっと写真を撮っておけばよかった。もっと沢山の時間を過ごしておけばよかった。そんな風に後悔する。

後悔の中で、やはり僕はできた人間ではないからきっとそいつを恨む。なんで死んだんだよ。昨日会っただろ。その時に話せよ。もっと頼れよ。僕が悲しいじゃんか。

そう、きっと死ぬことはダメなんかじゃないよ。ここは悲しい喜劇だから、こんな奴がいたんだって泣きながら笑う喜劇だから、死んじゃダメだってことはない。

でも誰かを悲しませるのはダメだ。悲しい喜劇をこれ以上悲しくするなよ。悲劇になったらどうするんだ。

なんてこともきっとない。悲しませるのはダメなんかじゃない。だってここは喜劇と約束された世界だから。どれだけ悲しくても悲劇になることはない世界だから。

それじゃあ、どうすればいい。そんなの僕だって知りたいさ。今の僕には悲しい世界をこれ以上悲しくするなよって叫ぶことしかできないんだ。