いつかの記事に“いただきます”と“ごちそうさま”だけは忘れず、意識的に生と向き合いたいと書いた。
昔から気をつけていたことにはいたが、その記事で言語化した後、その言葉たちを欠かすことがほとんどなくなった。やはり、言葉にするというのは一種の具体的な縛りのようなものになるのだと思う。
しかし、気づいた。僕の“いただきます”と“ごちそうさま”は良くも悪くも儀式化している。教徒が毎日同じ時間、同じ方角へお祈りするように言う。けれども、お坊さんが毎日同じ文、同じ速さでお経を読むように言う。
宗教などであれば、無意識下に落とし込むことは素晴らしいことなのだろう。この言葉らを無意識でも言うことができているのなら、ある意味体に染み込んだということなのだろう。ただ僕は意識的に向き合いたい。というか向き合うという言葉が無意識の中で成立するとは思わない。動物らが殺される姿を、植物らがむしり取られる姿を僕は意識しなければならない。