Ms.teryさん

気の向くままに

嫌いじゃないよ

3日前、花火を見た。

名前は知らないけれど下が勉強机を置いたりできるスペースがあって、その上がマットレスを置けるようになってる二段ベットみたいなので横になってると、どーんと音が聞こえた。

初めの方は歩道と車道の間にある側溝の蓋の上を人が歩いた音かと思った。けれども頻繁になるようだから雷が鳴っているのかと思ったが、今日は一日晴れの予報だった。なんだろうと思っていると母がベランダに出て、花火だよって言った。

久しく花火を見ていなかった。花火の音も疎遠だった。このご時世だから仕方のないことだろう。久しぶりに見る花火はこれほどかって思うほどに綺麗だった。初めは喫茶店の垂れ流しの音楽のような花火が、クライマックスに近づくと転調し、ラスサビには遠くから見てもわかるほどに大きな枝垂れ桜のような花火が上がった。

綺麗だなって思うのと同時になんとなく悲しくなった。もう終わったのかって。垂れ流しの音楽だったものが、激しく咲き乱れ散っていきもの寂しさを残していった。これが古来日本から伝わる趣なのだろう。やはりなんと美しく、なんと悲しいものなのだろうか。

趣の精神について、僕は全然詳しくない。ただ余韻に浸る文化は嫌いじゃない。今はもうこの世にないものに思いを馳せるという行為は美しいものに感じられる。しかし、だからこそ悲しいものだなと感じてしまう。

 

楽しいという感情は楽しかったという記憶だけを残せばいいものの、次はないのかなという欲求を生み出す。余韻に浸るのはその欲求への諦めなのだと思う。次はないのだから、今この瞬間を胸に刻もう。この瞬間というけれど、胸に刻もうと思うのは大抵物事が終わった後のこと。そして、刻まれるのはかけがえのない今なのではなく、本当はかけがえのない少し前だということ。

大切な時間というのはその瞬間に大切だと気づくことはできないのだと思う。思い出すという行為を経て大切な時間になる。それが趣ということなのだろう。

 

悲しくはないだろうか。楽しい思い出でもその先には寂しさが待っている。余韻に浸っても、正確に思い出しても気休めにしかならなくて、やはりその先にも寂しさがいる。

生きるということの中に今この一瞬はほんの数パーセントで、残りの大半はその寂しさが纏わりついている。なんて悲しいのだろう。楽しかったことは簡単に思い出せるのに、楽しいことを考えるのは難しい。

そのくせ、逆の場合では成り立たない。辛いことは簡単に思いつくし、辛かったこともたくさんある。楽しい記憶は寂しさを生み、辛い記憶は辛いままの状態でいる。

 

なんて悲しい世界だというようなことを言ったが、その世界に関しても僕はあまり嫌いじゃない。悲しくも前を向いている姿を美しいと感じてしまうから。

余韻や思い出に浸る、すると確かに寂しさを生むけれど活力にもなり得る。その過程も美しい。そういった具合が嫌いじゃない。