Ms.teryさん

気の向くままに

人間になりたい

僕は僕自身のことをよく知らない。
だからこそ僕という人格は僕という人間の一部であると感じている。


よく知らない、よくわからないから、時折深い海に浮いているような感覚になる。
その感覚のせいか、より深いところに僕という人格とは別の僕が存在しているように感じる。
そういうわけで、僕という人格が僕という人間の表層なのではないかと思う。


けれども、第三者的な視点から見た時に、僕という人格が及ぼす影響というのは、ほんの一部にしか過ぎない。
無意識的な、思考や所作の偏向が、僕という人間の大部分を占めている。
そうした時、無意識的な僕が僕という人間の表層なのではないかと考える。

 

だが、この文章を書いているのは当然、意識的な、僕という人格なわけで、やはり“僕”という視点から見る方が優先されるべきであるのかもしれない。

そうした場合、僕という人格が表層である方が相応しいのだと思う。

 

しかし、僕という人格はかなり面倒くさいようで、“僕”こそを僕という人間の核としたいと願っている。あわよくば無意識的な僕さえも取り込むことを望んでいる。

つまりは、“僕”は人間になりたいのだ。第三者視点的な人間になりたいのだ。それを叶えるには僕という人格が僕という人間の核であるとした方が都合がいいのである。

 

当然のことながら、僕という人格が意識である以上、第三者視点的な人間にはなれない。無意識を意識することは不可能なのだ。仮にできたとして、果たしてそれを人間と呼んでいいのか疑問が残る。だが、今のところは叶わないと知りつつも願い続けたいと思うのだ。