Ms.teryさん

気の向くままに

僕は僕なのだ。

高校より前の記憶があやふやなのだけど、たぶん僕という自我の形成が高校になってからだったことが一番の原因かもしれない。なんとなく昔の僕は僕であって僕じゃないような気がする。これは自分とは何かということに繋がるのだと思う。きっと僕という自我は自分ではない。

あたりまえっちゃあたりまえ。僕が自分を理解しているわけない。まあ僕の認識にはなっちゃうけれど、数学的に言うと僕という人間を構成するという全体集合Uの中にある部分集合Aが僕という自我なのだと思う。つまり僕という自我(部分集合A)の中に高校より前の記憶(要素)が含まれていないということなのだろう。含まれていないと言い切るのも変な話だが、確実に占める割合は小さい。

ここまで軽く僕という自我について考えてきたのだけど、それを踏まえて考えたいのは“考える”ということ。考えているのは僕という自我なのか、それとも僕という人間なのかということ。もちろん答えなんてわかんない。“考える”について考えたいが、きっとそれは“僕の考える”にしかならない。まあとりあえずここからは“僕の考える”について考えたい。

考えているのは僕という自我なのか、それとも僕という人間なのか。きっと二つあわせて正解なのだと思う。第一段階として僕という人間が考えて、次に僕という自我で考える。その時僕という自我は前段階を考えていると認識できるかと聞かれれば、たぶん認識していない。そういう次元じゃない。認識できるのは第一段階が終了して、何かを思いついた状態となった時(僕という自我で考え始める段階になった時)になると思う。そのことについても、なんとなく僕であって僕じゃない感覚と出会う。考えることがポッと現れるような感覚になる。

僕は僕という自我でしかない。たぶん完全な僕と呼ぶことはできない。僕は僕という自我と僕という人間とを区別してしまっている。僕という自我に置いて考えるという行為は一般化した言葉の上でしか成り立たっていない。“考える”について考えてみるとそんな気がする。

そして僕という自我は僕という人間に興味を持っていない。むしろこの自我はこの人間を食い殺そうとしている。部分集合Aに含まれない他の要素を見て取捨選択して、僕という自我だけで完結させようとしている。そのことについて僕という自我はもちろん悲しいとすら感じていない。僕(という人間)は僕(という自我)なのだ。きっと生きようとする次元が違うんだよ。