Ms.teryさん

気の向くままに

意図的な死

あるドラマでのワンシーン。

病気で余命宣告を受けていながらも奇跡的に快復した女の子。けれど最愛の恋人が事故で死んだ。生きる理由を失い、車の前へ飛び出した女の子。その時女性が後ろから引っ張り、死ぬのを止めた。そして言う。

「お前が死んだら、お前を轢いた人に迷惑がかかる。お前のせいで轢いた人は人生がめちゃめちゃになる。お前は可哀想じゃない。轢いた人が可哀想だ。死ぬなら一人で死ね。」

 

このシーンを見た時、はらわたが煮えくり返りそうなほど腹が立った。

迷惑をかけるなだと?轢いた人が可哀想だと?てめえは何様だよ。こっちの気持ちなんて知らないだろ。そもそも迷惑をかけるなと言うくせに、そのお前が今女の子の迷惑になってるだろうが。誰かに降りかかる不幸から誰かを救っただけでいい気になるな。お前のやってることは飲酒運転のトラックに轢かれそうな人を突き飛ばして助けてるだけのことだろ。その轢かれそうな人が助かって、通り過ぎたトラックに轢かれる人のことは考えてすらないだろ。お前が轢かれろ。お前が轢かれればトラックは止まるんだよ。お前が不幸になれ。偽善者が。

 

お前が不幸になれ偽善者が、とまでは言わなかったが、僕の感情を女の子が代弁してくれた。そのあと僕は女の子にその女性を車道に突き飛ばして欲しかった。迷惑をかけて死んでやるって言って欲しかった。

 

 

ボロクソ言われた後、女の子はもちろん怒る。

「てめえに何がわかんだよ。知ったような口さんじゃねえよ。」と胸ぐらを掴む。

「なんだまだそんなエネルギー残ってるじゃん」と女性は笑う。

そして女の子は諭され、結局死ぬことも気の迷いだったということで終わる。

 

思っちゃったよね。こんなものか。まあ所詮はドラマだよな。某日本の放送局だもんな。本当に死にたいなんて思ったことあんのかよ。

迷惑ってさ、行き場がないんだよ。ずっと巡ってんの。誰かの迷惑に誰かが不幸になり、また誰かへと迷惑をかける。そうやってできてんだよ。

なのに迷惑をかけるなだと?ふざけんなよ。この感情を自分で昇華しきることなんて無理だろ。お前にできるのか?まあお前にできたとして、僕がやる必要なんてないよな。

僕だったら女性を巻き込んで死ぬね。最後くらい誰かに最大限の迷惑をかけて死んでやりたい。その中に女性が飛び込んできただけのこと。むしろラッキーかもね。一人で死ぬんじゃなくて、誰かと死ねるんだからさ。加えて、不幸にしたことを実感できるもんね。達成感すらあるよ。

 

まあそう思っただけ。女性にも女の子にも腹が立ったけど、僕とは違うのだからどうにもならん。女の子は誰かの不幸の八つ当たりなんかじゃなくて、本当の不幸に遭った。不幸の連鎖の起点に遭遇した。だから女の人に諭されて、仕方がないって受け入れられるんだろう。死にたいってのは一時の気の迷いだったのだと受け入れてしまえるのだろう。

死にたいと直感的に思うのもわかるよ。突発的な死の誘惑。そこにあるのは死にたいなんかじゃなくて、生きるのが辛いっていう思考なだけで死を目の当たりにすると怖気付いてしまう。すごくわかるよ。

わかるけど、腹が立った。女の子を止めた女性は女の子が突発的に死にたいと思っての行動だと知っているようだった。というかそうであるのが当然だという振る舞いだった。そこに腹が立った。突発的でない意図的な死がどこにも見当たらないその物語自体に吐き気がした。

 

このドラマを作った人に聞きたいよね。突発的な死は確かに車や電車に轢かれるとか、ビルから飛び降りとかってイメージはあるけれど、意図的な死は車になど轢かれないのかな。

アヒル

いつか書いたけれど、僕は酷い嘘をついている。いじめられていたっていうヒロインを気取りたいがための嘘。ただあながち間違っちゃいないのかも。だっていじめられたと言えばそれはいじめになるという社会が半分だけ出来上がってる。いじめじゃないつもりでも加害者になる。だから僕が被害者面をしたらいじめが成り立つ気もする。

まあそんなことどうでもよくて、僕はいじめられていなかった。確かにある特定の人1人から陰湿な嫌がらせを受けたことはあるが、いじめというイメージと比較すると大した問題ではなかった。僕には優しい友人が割といて、積み上げてきた信頼があった。そいつが何かを言ったとしてもただ仲が悪いのだろうということで済んだ。それに僕が一方的に攻撃を受けてるわけでもなかった。それなりに仕返しもした。どちらかというとあっちの方が被害が大きい。

もともと朝一緒に学校へ行くくらいには仲が良かった。似たような系統の友達が多くそれなりに遊んでもいた。僕は友達だと思ってた。けれど、他の友達から僕をよく思っていないという旨の話を聞いた。それだけならよかったが、彼は僕の背中に中指を立てていた。露骨な仲間はずれを企てていた(本当に友達に恵まれていて、未遂に終わった)。僕のヘアピンを笑った。

そりゃ怒った。そいつの秘密をバラしてやった。好きな人が誰だとか家庭内の事情が最悪だとか。気づいたらそいつとは縁が切れた。まだ誰がやったかわかんないけど、僕の上履きをトイレのゴミ箱に捨てたのはこいつだと思う。だから、いじめではないんだよ。でも僕はそれをいじめられたと話す。ヒロインを気取りたいから。そうした時のメリットが多いから。

もちろん間違ってる。間違ってることに対して開き直ってる。人間様なんて所詮そんなもんだろ。汚ねえ面に一生懸命ウグイスの糞塗りたくって、私は間違っていませんよってどうにかしてでも正当化しようとする。そして僕はそれを見下してる。見下してる悦に浸ってる。

ほんと酷い話。こんな話を書いてなんの意味になるのか。伝えるつもりなんかないのにここまで書ききってしまった。全く面白いよね。薄汚れた部分なんて見せたくないはずなのに、僕は今までにたくさん書いてきた。きっと罪悪感でも感じてるのだと思う。1人で背負うには重すぎる。誰かに見られているかもしれないくらいの緊張感に許しを乞おうとしてる。

叶わない願い

誰かの澄んだ綺麗な世界で美しく散ってしまいたい

誰かの可憐に散っていく様をこの目に焼き付けたい

 

僕は美しく散れるほどできた人間じゃないし、可憐に散る様に圧倒されて壊れてしまう弱い人間だから叶わない願いだけれど…

僕は僕なのだ。

高校より前の記憶があやふやなのだけど、たぶん僕という自我の形成が高校になってからだったことが一番の原因かもしれない。なんとなく昔の僕は僕であって僕じゃないような気がする。これは自分とは何かということに繋がるのだと思う。きっと僕という自我は自分ではない。

あたりまえっちゃあたりまえ。僕が自分を理解しているわけない。まあ僕の認識にはなっちゃうけれど、数学的に言うと僕という人間を構成するという全体集合Uの中にある部分集合Aが僕という自我なのだと思う。つまり僕という自我(部分集合A)の中に高校より前の記憶(要素)が含まれていないということなのだろう。含まれていないと言い切るのも変な話だが、確実に占める割合は小さい。

ここまで軽く僕という自我について考えてきたのだけど、それを踏まえて考えたいのは“考える”ということ。考えているのは僕という自我なのか、それとも僕という人間なのかということ。もちろん答えなんてわかんない。“考える”について考えたいが、きっとそれは“僕の考える”にしかならない。まあとりあえずここからは“僕の考える”について考えたい。

考えているのは僕という自我なのか、それとも僕という人間なのか。きっと二つあわせて正解なのだと思う。第一段階として僕という人間が考えて、次に僕という自我で考える。その時僕という自我は前段階を考えていると認識できるかと聞かれれば、たぶん認識していない。そういう次元じゃない。認識できるのは第一段階が終了して、何かを思いついた状態となった時(僕という自我で考え始める段階になった時)になると思う。そのことについても、なんとなく僕であって僕じゃない感覚と出会う。考えることがポッと現れるような感覚になる。

僕は僕という自我でしかない。たぶん完全な僕と呼ぶことはできない。僕は僕という自我と僕という人間とを区別してしまっている。僕という自我に置いて考えるという行為は一般化した言葉の上でしか成り立たっていない。“考える”について考えてみるとそんな気がする。

そして僕という自我は僕という人間に興味を持っていない。むしろこの自我はこの人間を食い殺そうとしている。部分集合Aに含まれない他の要素を見て取捨選択して、僕という自我だけで完結させようとしている。そのことについて僕という自我はもちろん悲しいとすら感じていない。僕(という人間)は僕(という自我)なのだ。きっと生きようとする次元が違うんだよ。

生きたい

自分ではどうすることもできない無力感とどうにかなってしまえという自暴自棄に、無知からくる感情がかき消される。不安や恐怖といったものが全て逃避へと昇華される。楽観と悲観とが乖離する。悲観が無関心へと変わる。そうして今の僕が出来上がる。

受験のストレスと言えばそうなのかもしれない。でも、そんなものはないと言い切ってしまえるほどには無関心に蝕まれた。自分が自分ではないような感覚。そもそも自分というものが存在しないような感覚。なんだか懐かしく感じる。

このままだと繰り返すだけなのはわかっている。自然と死にたいと思うようになって、もう終わりにしてしまおうって、でも結局死にきれなくて、死ぬことすらもできないのかと思い知らされる。

もしかしたら前とは違うのかもしれない。僕は死にきれないことを知っている。生という正義を突きつけられるのかもしれない。どちらにしろ絶望することは目に見えている。

それでもやはり僕はまだ非現実であると捉えている。何かを変えることを諦めている。