Ms.teryさん

気の向くままに

大人

勉強が嫌いだ。
でもそんなことを言ってしまえば、ろくに社会にも出てないくせに甘えるんじゃないと“大人”に言われる。社会に出るのであれば勉強は必須。頑張れない奴らに社会なんか乗り換えられない。
“大人”達は口を揃えて言う。
「だから“子供”なんだよ。いつまでも“子供”のままでいられると思うなよ」

 

僕は頑張れない。もちろん、少し語弊がある。正確に言えば、“大人”達の頑張るというのが嫌いだ。その後ろには“嫌だけど”が隠れてる。嫌だけどやることが頑張ることの正体なのだ。

頑張れない奴らに社会なんか乗り越えられない。それは嫌なことが我慢できない奴らは生きていけないということなのだろう。

果たしてそれが正しいのだろうか。僕はそれを是としてしまっていいのだろうか。そんなわけがあるか。嫌なことを我慢するのはごめんだ。だから“大人”が嫌いなんだ。“頑張る”が嫌いなんだ。そして“勉強”が嫌いなんだ。

“勉強”が嫌いなんてのは甘えだという“大人”は、嫌なことでも我慢して“頑張って”きたのだろう。それは素晴らしいことだと思う。そのようにしていけば社会をうまくやっていけるのだろう。

けれど僕が聞きたい言葉なんかじゃない。“勉強”も“頑張る”も、その後ろに“嫌だけど”をつけたのはお前たち“大人”だろうが。なんで“楽しいから”をつけなかったんだよ。我慢することが正しいわけないだろ。

勉強だって新しいことの発見だ。頑張ることだって新しい世界への挑戦だ。大人はそういう道を示すべきじゃないか。

勉強が嫌いだと言う僕はそりゃ甘えてるさ。だって社会を知らないから。でも大人は僕らを知ってるだろう。経験しただろう。

僕は好きなことをしたい。嫌なことなんかしたくない。勉強も頑張ることも嫌いだ。でも発見と挑戦は好きだ。知ることが楽しいんだよ。ただ少し怖い。知らないものに触れるのが怖い。だから逃げてしまうこともある。そんな僕らを突き放すのではなくて、手を差し伸べてくれよ。怖いかもしれないけれど楽しいよって言ってくれよ。そうじゃなきゃどう“頑張れ”ばいいんだよ。

伝える

何かを伝える時、どうしても長くなってしまう。相手に100%の理解なんて求めていないが、誤差が少しでも小さくなるよう補足を多用する。でも残念なことにそうすると長くなる上に、何が言いたいことなのかわかりづらくなる。

ここでの文章だってそうだ。なくてもいい文が沢山ある。大抵500文字を超える。1000字以上なんてのもある。その原因はきっと僕の話し方にある。

何も考えないで話す癖がある。とりあえず何か話して、そこから考える。思いついたら話す。間違いだと感じたら訂正する。そしてもう一度正しいのか吟味する。そうして考えを確立させる。つまり僕の話は最初にゴールを持ち合わせていないんだ。

この時点でもまだこの文のゴールが見えてない。じゃあなんで書くのかと聞かれれば、ただ単純にこの考え方をまとめたかったから。伝えるという役割を任せていない。きっと僕の悪い癖だろう。

僕は伝えるつもりなんかないのに人に話す。伝えること自体が目的じゃない。僕の考えがまとまればそれでいい。人に話す必要はないかもしれないけれど、人からの意見が役に立つことがある。だから伝える。

やはり悪い癖なのかもしれない。それでも僕は伝えるつもりなんかないのに何かを伝えようとする。

どこまでも悲しい喜劇

生きるってのは絶対的な正義なんかじゃなくて、むしろどこまでも悲しくて、それでも楽しい奴らがいたよなって泣きながら笑うような喜劇なのだと思う。

きっと死んだらダメなんてことはないんだ。自発的に死を選ぶことがいけないなんてことはないんだ。自ら死を選ぶ勇気を称賛するべきなんだ。

そうわかっていても悲しいものは悲しい。誰かが死ぬことを悲しめるほど僕はできた人間ではないけれど、僕が好意を抱いている人が死ぬのは悲しい。自ら命を経ったのだと知ったらもっともっと悲しい。

僕にできることなんてたかが知れてる。それでも僕には何かできることがあったのではないかって考えるはずだ。そうして、もっと話しておけばよかった。もっと写真を撮っておけばよかった。もっと沢山の時間を過ごしておけばよかった。そんな風に後悔する。

後悔の中で、やはり僕はできた人間ではないからきっとそいつを恨む。なんで死んだんだよ。昨日会っただろ。その時に話せよ。もっと頼れよ。僕が悲しいじゃんか。

そう、きっと死ぬことはダメなんかじゃないよ。ここは悲しい喜劇だから、こんな奴がいたんだって泣きながら笑う喜劇だから、死んじゃダメだってことはない。

でも誰かを悲しませるのはダメだ。悲しい喜劇をこれ以上悲しくするなよ。悲劇になったらどうするんだ。

なんてこともきっとない。悲しませるのはダメなんかじゃない。だってここは喜劇と約束された世界だから。どれだけ悲しくても悲劇になることはない世界だから。

それじゃあ、どうすればいい。そんなの僕だって知りたいさ。今の僕には悲しい世界をこれ以上悲しくするなよって叫ぶことしかできないんだ。

信頼

誰かを信じるということは自分を信じることなのだとずっと思っていた。誰かに打ち明ける時信じるのはその誰かではなくて、打ち明けて最悪な場合が起こっても自分で対処できることこそが信じるということで、その関係を信頼と呼ぶのだろうと思っていた。

でも多分違う。自分じゃどうしようもないことを相手に頼ることが信じることで、信頼なのだろう。僕はそのことに気づくまでに随分と時間がかかった気がする。

そもそも独りよがりだったんだ。思い上がりだったんだ。自分じゃどうにもならないことなんて沢山ある。自分でどうにかできるのなら頼ることなんてないし、裏切られても自分で対処できるのならそれは信頼ではなくて信仰だろう。

そのことに気づけたことは僕にとって大きなことだ。

ただ、それだけじゃ足りない。僕には致命的な欠陥がある。人に頼る方法を知らない。誰かを信じることが怖い。裏切られそうだからじゃない。失望されそうで怖い。

こんなことで悩んでいるのか。どうして今まで話さなかった。自分でどうにかできるとでも思っていたのか。甘えているんじゃないか。

そんなのはわかってる。わかっててもどうしようもないんだ。どうしたらいいかわからない。それを突きつけられそうで怖い。

優しい言葉が欲しいんだよ。頑張ったねって。言われたいんだよ。きっとまだ僕の信頼は歪んでる。頑張ったねって言ってくれそうな人を探してる。

僻み

人と関わるのが心底怖かった。誰かの幸せを背負ってしまうから。そうして自由に生きられないから。そんなのはカッコつけで、本当は自分が薄れてしまいそうだから。ただそれだけ。でもそのことがとても怖かったんだ。

誰かと深く関わるということを避けてきた。僕は“俺”を演じて、友達と仲がいいのは僕なのではなく“俺”なのだ。そうすることで人との関わりに自分の色を混ぜることを逃れた。そんなことを長い間続けてた。

でも魔が刺した。ある人と深く関わってみたくなった。関わることへの恐怖は杞憂なのではないかと思った。もしかしたらそれはある意味では正しかったのかもしれない。結局関わった結果、僕の色が薄れることはなかった。ただ僕の色は確かに誰かと混ざった。

相変わらず関わりへの恐怖は消えなかった。正確に言えば消えなかったのではなく形を変えた。僕は関わることの楽しさを知ってしまった。知った途端に滲み出た。そして僕は思い知った。人が持つ色は単なる色なんかじゃない。どちらかと言うと色水だった。僕の色が周りを侵食していった。そのことを感謝されたこともある。だけど、それが僕には大罪に思えた。

僕が関わりたいと願ったある人は濁ってしまった。混ざっちゃいけない色ってあるだろ?それが僕だった。その人の強さを僕がもいだ。

こう見えても反省してるんだ。関わりすぎてしまったんだって。僕として接していたもんだから、今更“俺”にだってなれやしない。だからその人との関わりを完全に絶とう思った。

本当にそう思ったんだよ。なのに何故かその人は誰よりも鮮明になっていた。少し見ない間に濁ってたはずの色が綺麗な色をしてたんだ。わかんなくなった。僕のしたことの是非がわからなくなった。

僕は結局、加害者になりたくないだけだった。僕が汚してしまいそうで、それがたまらなく我慢できなくて、責められたら弁解の余地なんてあるはずもないように思えて。だから関係者でいるのをやめたいって思った。ただそれも逃げのように感じて同等に罪深い行いなのではないかと考えてしまった。

加害者になったからって、ひよってさようならってあまりにも不誠実過ぎる。僕として接してしまった以上、責任は僕自身にあった。結果として僕は関係を断つことはなかった。

それでも願ってしまう。拒絶して欲しい。そうしてくれさえすれば、僕は救われる。そんなことを考えるけれど、きっと拒絶なんてされないだろう。そのことがこの上なく嬉しくて、とてつもなく苦しい。

友達

友達って言葉に引っかかることがある。

誰しもが一度は考えたことがあるはずだ。自分とこいつは友達なのか。友達とは一体どこからがそうなのか。その疑問が解決されないまま、友達ってどこから友達なのかわからないよねって会話と遭遇する。「私は君のこと友達だと思ってるよ」「私もそう思ってる」「よかった。じゃあ友達だ」そうやって曖昧なまま着地する。

友達とは両方がそう捉えていれば成立するものだという着地点はいささか問題があるように思える。友達だと両方が認識するというのは、友達であることの最低条件のように感じる。

友達であるという証明において、“沢山の時間を共有すること”や“気兼ねなく会話できること”などとあげても、相手が友達と思っていないのなら友達だというのには難しい。その場合、友達のような都合のいい関係に付き合わされている人が許さないだろう。

逆に両方が友達であると認識しているだけだとすると、それも友達であるか怪しい。その条件だけで時間や趣味の共有のない関係があったとするなら、友達と呼ぶにはやはりおかしい。

多分、両方友達と認識した上で時間と趣味などの共有をした関係を友達と呼ぶのだろう。

それでも友達という言葉に引っかかる時がある。上記の条件を突破してもなお、友達という言葉が似合わないと感じることがある。少なくとも僕にはそう言った人が何人かいる。友達と思いたくないことに対してなんとなく申し訳ない気持ちにもなる。

きっと友達かどうかってのは関係ないんだ。僕はその人として接していたい。分類なんてどうでもいい。個人として接していたい。そういった思いが友達と呼びたくない原因なのだろう。もしかしたら僕は友達という言葉を信用していない。だからそんな安っぽい言葉で呼びたくない。

醜態

僕の話すことの半分は嘘だ。その後、僕の話したことの8割は嘘になる。そのことについて僕は別になんとも思っていない。

愉悦や恐怖、安堵、注目などの目的の違いはあるはずだが、多くの人が嘘をつく。そうしてついた嘘に織り交ぜた本当も時間が経てばそうではなくなる。それが普通なのだろう。まああくまで僕の個人的観測ではあるが…

でもたまに全て本当に話す時がある。それは大切な人の前かもしれないし、全く知らない赤の他人の前かもしれない。知り合い止まりの人や不特定多数の人の前かもしれない。人によって本音を話せる人も場所も違う。

僕は本音を話して欲しいとは思わない。僕だって嘘を交えてる。だから嘘でいい。それで満たされるのなら嘘で全然いい。どうでもいいクソみたいな会話で笑い合えればいい。

もちろん、本音を話してくれてもいい。本音を話す人にしてくれたなら、僕も本当の気持ちと事実で話そう。楽しい嘘で固められた会話に比べたら、ひどく醜い会話になるかもしれない。

「お前そんな嘘ついてたのかよ」「お前こそそんなこと隠してたのかよ」「てか、ずっと騙してたんだな」「それはお互い様だろ」「それもそうだな」

そうやって笑えばいい。それはそれで悪くはない。

最後に一つ僕の嘘を教えようか。とびっきりの嘘を一つ。僕の場合、知り合いがいるがその他大勢の赤の他人のいるプラットホームの方が本当を話しやすいんだ。

僕はいじめられていたと話すけれど、実際は小中の時クラスでいじめられてたわけでも、嫌われていたわけでも、浮いていたわけでもない。

あ、もしかしたら浮いていたってのはワンチャンある。でも、なんなら僕は割と色んな人と喋ってたし、友達だってそれなりにいた。

いじめられてたっていうのは単なるかまってちゃんなのさ。その方が楽だろ。いちいち説明するのも面倒くさい。たった数人からの嫌がらせで落ち込んでたなんてダサいだろ。それにいじめられてたって言った方が心配してくれるだろ。

結局はそんなもんなんだよ。ひでえだろ。笑ってくれ。そんでもし今度僕に本当を話すことがあったなら、こいつは酷いなって笑ってやるよ。