綺麗事ってなんとなく正しい感じがする。自殺はいけない、差別はいけない、いじめはいけない、ルール違反はいけない、親不孝や暴力もいけない。そうなればみんな幸せになれる。だから、そうあるべきなんだ。
そう叫ぶのはただのオナニーだ。自慰と一緒だ。綺麗事言ってる自分カッコいいって自分が気持ちよくなっているだけ。実際は、自殺を止めるほど人の人生を負うことなどできない、差別について深く考えてやいない、いじめに対する社会の圧力をわかっていない、ルールの存在意義すら理解していない、親や周囲の人への誠意だって本心じゃない。そんな綺麗事だけで生きていけるなら楽だよな。
今の世の中って後者な気がする。
綺麗事言って気持ちよくなってる人を憐れんで自分が正しいんだぞって気持ちよくなってる。
どうせ他人なんてわかりあえないんだから、そんな建前なんて捨てちまえって諦めてる。
まあ諦めることが悪いとは言わないけど…
でも、それはただ諦めている場合の時だけ。
それを押し付けるのは間違ってるだろう。
確かに、諦めたものを目の前でちらつかされるのは怒りも湧いてくるとは思う。
けれど、だからってそれを人に押し付けるのも間違ってると思うんだよ。
わかっているふりをしている人が多いと感じる。
オナってる人を見て、憐れんで自分はそんな奴らとは違うんだって一人で気持ちよくなってるのって馬鹿らしくない?
結局はそれもオナニーじゃんか。
僕はこんな世の中だからこそ、綺麗事を叫ぶべきだ思うんだ。
綺麗事が馬鹿にされていいはずがない。
だってそれはたとえ浅かったとしても、誰もが一度は夢見る理想だろう。
皆んながどうせ無駄だと諦める人よりも、皆んなが綺麗事を叫び続ける馬鹿の方が世界はよりよくなると思うね。
それに美しさってのは原動力になり得る。
綺麗事というといいイメージはないが、一種の美しさと言えるだろう。
浅はかな理想だとしても、それを主張することは美しい。
美しさを前に人は平伏すしかない。
一つ問題があるとするならば、綺麗事はやはりそのイメージ通り考えが浅いところだろう。
これは大きな問題だ。
自殺はいけない。
なぜ?
周りが悲しむ。
自分は悲しいのに?
それは他の何かで埋めよう。
その何かはどこにあるの?
君の中。
こんな風に当事者任せになってしまう。
だから綺麗事が忌み嫌われることになる。
だから嘲笑われる。
そんなこと言うとオナニーや自慰、自己満って言葉が使われるけれど、結局はなんだっていい。自分が気持ち良ければそれでいいんだ。
極論を言うのなら、全部自分のためなんだ。
ならば僕は美しさを行動理由にしたい。
気持ちよさではなくて、美しさを。
もっというと美しさが気持ちよさに直結するような回路を組みたい。
理解しろとは言わないけれど、分かってくれると嬉しい。
きっと僕は偽善者だけど、善人であることを叫ぶよ。