ついさっき絶望した。
僕は蝉が好きな少年だった。
虫取り網を持って捕まえては籠に入れ、気がつけば蝉で溢れていた虫籠を家に持ち帰り、父にうるさいとこっぴどく怒られることもあった。
あんなに綺麗に抜け殻を残すものだから、一つ一つ違いはあるのだろうかと袋に詰め、リビングのテーブルの上で列に並べて観察し、母に片づけなさいと叱られることもあった。
でも、今はその少年はいない。
蝉を見てもなんとなく気味が悪く、触れがたいと感じるようになった。抜け殻を見つけることなんてなくなった。
蝉への好奇心や興味なんてどこかへ消えた。代わりにあの蝉特有の轟音への煩わしさとあの虫特有の力動への嫌悪感とに置き換わった。
かと言って、子供心をなくしてしまったことを悲観したいわけではない。確かに残念ではあるが…
僕は気づいたんだ。
少年の好奇心と僕の嫌悪感の起点は一つ。
それは“生”だ。
僕は子供心を失ったことよりも、生に対する感情が好奇心から嫌悪感へと変わったことに絶望した。
なんて残酷なんだろう。
生きながらにして、“生”を忘れていた。
それを忘れるべきではない、忘れたくないと綺麗事を言っておきながら、僕はそれを受け入れてしまっている。
その事実にまた絶望した。
小さな少年が抱く好奇心も僕が抱く嫌悪感も、“生”があまりにも周りにないせいだろう。
僕は今一度考えなければならない。