Ms.teryさん

気の向くままに

シーザーサラダ食べたい

突発的に死にたいって思った。得体の知れない苦しみから逃げ続けることに疲れたから、そいつに永遠のさよならを告げてやりたいと思った。

僕は何から逃げているのだろう。何がこんなに苦しいのだろう。もしかするとこの突発的な希死念慮は慢性的な自殺願望なのかもしれない。もう僕の周りに脅威はない。なのに息苦しさが消えてくれない。この長期的な息苦しさが希死念慮を誘発しているのかもしれない。そうなのであれば、それはきっともっと具体的な自殺願望と呼べるのだろう。

どうにか逃げようと手を尽くした。どうにか抜け出そうと必死に足掻いた。でもどうにもならない。コップに入れられた氷の隙間を水が埋めていくように、どうしたって飲み込まれてしまう。そしてそれと同じように息苦しさに自らが溶け出してしまうような感覚に陥る。

僕はこの苦しみと同じモノでできているのだ。じゃあ、逃れるもクソもない。死ぬしかないのではないか。

そう思いつく。あるいは、そう思い至る。でもまあ結局、僕は死なない。死ぬのが怖いから自ら死ねない。もしこの恐怖よりも逃れられない恐怖が上回れば、死ぬと決意できるのに。

自己

何かを考え始めて飽きたり、行き詰まったりして他の何かを考えたはずなのに、結局は同じところに戻ってくる現象に名前をつけたい

ループとも違う気がする。でも本当に不思議に思うほど、ある一つの疑問に収束する。

僕を僕と呼ぶこの自我はなんなのだろうか。

どのルートを通ってもこの問題に直面してしまう。当たり前っちゃ当たり前のことかもしれない。考えるという行為は僕という自我の元に成り立っているのだから。

まあ僕の思考回路がおかしいのかもしれない。でも、そこんところはどうだっていいや。僕は僕を知りたい。僕とは一体なんなのだろうか。ただただ純粋に知りたいんだ。

嫌いじゃないよ

3日前、花火を見た。

名前は知らないけれど下が勉強机を置いたりできるスペースがあって、その上がマットレスを置けるようになってる二段ベットみたいなので横になってると、どーんと音が聞こえた。

初めの方は歩道と車道の間にある側溝の蓋の上を人が歩いた音かと思った。けれども頻繁になるようだから雷が鳴っているのかと思ったが、今日は一日晴れの予報だった。なんだろうと思っていると母がベランダに出て、花火だよって言った。

久しく花火を見ていなかった。花火の音も疎遠だった。このご時世だから仕方のないことだろう。久しぶりに見る花火はこれほどかって思うほどに綺麗だった。初めは喫茶店の垂れ流しの音楽のような花火が、クライマックスに近づくと転調し、ラスサビには遠くから見てもわかるほどに大きな枝垂れ桜のような花火が上がった。

綺麗だなって思うのと同時になんとなく悲しくなった。もう終わったのかって。垂れ流しの音楽だったものが、激しく咲き乱れ散っていきもの寂しさを残していった。これが古来日本から伝わる趣なのだろう。やはりなんと美しく、なんと悲しいものなのだろうか。

趣の精神について、僕は全然詳しくない。ただ余韻に浸る文化は嫌いじゃない。今はもうこの世にないものに思いを馳せるという行為は美しいものに感じられる。しかし、だからこそ悲しいものだなと感じてしまう。

 

楽しいという感情は楽しかったという記憶だけを残せばいいものの、次はないのかなという欲求を生み出す。余韻に浸るのはその欲求への諦めなのだと思う。次はないのだから、今この瞬間を胸に刻もう。この瞬間というけれど、胸に刻もうと思うのは大抵物事が終わった後のこと。そして、刻まれるのはかけがえのない今なのではなく、本当はかけがえのない少し前だということ。

大切な時間というのはその瞬間に大切だと気づくことはできないのだと思う。思い出すという行為を経て大切な時間になる。それが趣ということなのだろう。

 

悲しくはないだろうか。楽しい思い出でもその先には寂しさが待っている。余韻に浸っても、正確に思い出しても気休めにしかならなくて、やはりその先にも寂しさがいる。

生きるということの中に今この一瞬はほんの数パーセントで、残りの大半はその寂しさが纏わりついている。なんて悲しいのだろう。楽しかったことは簡単に思い出せるのに、楽しいことを考えるのは難しい。

そのくせ、逆の場合では成り立たない。辛いことは簡単に思いつくし、辛かったこともたくさんある。楽しい記憶は寂しさを生み、辛い記憶は辛いままの状態でいる。

 

なんて悲しい世界だというようなことを言ったが、その世界に関しても僕はあまり嫌いじゃない。悲しくも前を向いている姿を美しいと感じてしまうから。

余韻や思い出に浸る、すると確かに寂しさを生むけれど活力にもなり得る。その過程も美しい。そういった具合が嫌いじゃない。

『世界から猫が消えたなら』

著者、川村元気

川村元気、どこかで聞いたような名前だと思ったら『四月になれば彼女は』の著者でもあるらしい。内容は微かにしか覚えていないけれど、旅の中で大切なものに気付かされるような物語だった気がする。

この『世界から猫が消えたなら』も大切なものについて書かれている。病院で余命宣告を受けた僕。1週間。やりたい10のことですら本当にやりたいことなのかわからなくなった。そんな僕に悪魔が現れて言う。

「実はあなたは明日死ぬんです。世界から1つものを消すことで1日余命を伸ばします」

世界から1つものを消していくなかで、僕は大切なものに気づく。

この本はそんな物語。

 

世界から〇〇が消えたなら。悪魔に提案されて、僕は時計を消す。そこで僕が言うんだ。「人々は時間を作ることで自由と引き換えに、安心を得た」

自由は、不安を伴う。

全くその通りだと思う。自由という不安から逃れるためにあらゆる決め事をしてきたのだろう。なんだってそうだ。校則も交通規則も、法律だって不安から逃れるためだろう。僕自身のルールもそうなのだ。

責任ある自由。一見矛盾しているようにも思えるけれど、そう考えると矛盾なんてしていない。責任のある自由くらいがちょうどいいのだ。

 

世界から〇〇が消えたなら。と言うが、何を消すのかは悪魔が決定する。時計を消すのだって悪魔の独断だ。僕にできるのはそれを認めて余命を伸ばすか、認めずに死ぬか。yesかnoかの判断だけで何を消すかの自由は与えられていない。よく出来てるなと思う。

もし何を消すのか僕が決めることができるのなら、責任なんて生じないはずだ。なんたって消す対象を決めるのは僕でも、消すのは悪魔だから。そうではなくて、消すかどうかの判断を僕に決めさせるあたりがいい。悪魔もそこまで悪魔的ではないのかもしれない。まあ、悪魔的な悪魔なお話も面白そうではあるけれど…

 

世界から〇〇が消えたなら。もし僕が“僕”と同じような状況となった時、何を消せなくなるのだろうか。題名の通り、この物語のなかで悪魔は猫を消そうとする。大いなるネタバレにはなるが、“僕”は猫を消すことを諦めた。つまり、自分の死を受け入れた。

「何かを選ぶということは、何かを捨てるということだ」

この物語では何度も出てくる言葉だ。誰かが言った言葉。その通りだと思う。僕は自分の命を捨てて、何を選ぶのだろうか。僕だって“僕”と同じように猫がいなくなるなら命を捨ててもいい。世界中の猫の命を奪ってまで生きたいとは思わない。

じゃあ、猫以外なら何があるのか。きっと沢山あるはずだ。でも、その何かを思い付くことができない。僕は僕の命が惜しいよ。だけど、そうじゃないんだ。命と天秤にかけると言う話は置いといて、何かを消そうとした時その何かがどう大切なのかうまく想像ができない。

 

やはり、僕は欠陥品だと思う。失わずして後悔が先に立たない。そこら辺の想像力があまりにも欠けている。僕にとって大切な何か。きっとあるはずの僕の大切なもの。それを見つけたいと思った。

良くも悪くも

いつかの記事に“いただきます”と“ごちそうさま”だけは忘れず、意識的に生と向き合いたいと書いた。

昔から気をつけていたことにはいたが、その記事で言語化した後、その言葉たちを欠かすことがほとんどなくなった。やはり、言葉にするというのは一種の具体的な縛りのようなものになるのだと思う。

しかし、気づいた。僕の“いただきます”と“ごちそうさま”は良くも悪くも儀式化している。教徒が毎日同じ時間、同じ方角へお祈りするように言う。けれども、お坊さんが毎日同じ文、同じ速さでお経を読むように言う。

宗教などであれば、無意識下に落とし込むことは素晴らしいことなのだろう。この言葉らを無意識でも言うことができているのなら、ある意味体に染み込んだということなのだろう。ただ僕は意識的に向き合いたい。というか向き合うという言葉が無意識の中で成立するとは思わない。動物らが殺される姿を、植物らがむしり取られる姿を僕は意識しなければならない。

「君が電話をかけていた場所」「僕が電話をかけていた場所

三秋さんの本を読み返している。

今回は『君が電話をかけていた場所』『僕が電話をかけていた場所』を読んだ。多分一冊の物語が大人の事情によって2つにされたのだと思う。僕は一冊にまとめてもいいのにって思った。

まあそんなことは置いておいて、読んだんだ。

 

ある夜、深町陽介は不気味なベルの音を聞いた。確かにそれは目の前の公衆電話から鳴っているらしい。恐る恐る手を伸ばす。

「私と賭けをしませんか」

受話器越しに謎の女の声が鼓膜を震わす。

「あなたには忘れられない恋があるはずです」

その日、僕の最も暑い夏が加速する。

雑だけど、こんなあらすじ。深町には忘れられない恋があった。けれども、叶わないはずだった。なのに、その理由を謎の女が消し去ってしまった。ある条件付きで。

ー期限は8月31日、賭けに負ければ泡となるー

 

この物語には人魚に関する話がよく出てくる。人魚をテーマに書いたのだろう。初めて知ったのだが、人魚の肉を食えば不老不死になれるって言い伝えがあるんだね。そしてそれを誤って食べてしまった女の子が恐れられ、知人の死に耐えきれず村から出ていく。そんな物語があったなんて知らなかったよ。僕は不老不死に興味がある。その娘はどのくらい辛かったのだろうか。今度調べてみよう。

 

この本の中で初鹿野唯という女の子が出てくる。深町の想い人。そして、彼女は辛い時に涙ぼくろを水性ペンで書く習慣がある。SOSとして深町と初鹿野だけの秘密の暗号。僕は昔涙ぼくろを書いていたことがあるんだけど、これが原因だってことを思い出した。

いつ読んだのかも覚えていないし、いつ頃までやってたかも覚えてないけど、この本は最近の本なのでそこまで昔の話でもない。本の影響で涙ぼくろを描くって馬鹿らしいとは思うが、確かに僕の支えになっていたことだけは覚えている。辛い時、それがあると何故か笑えた。誰かに向けたわけではないけど、誰にでも向けていたSOS。結局、誰かに気づかれることはなかった。

そんなこんなを思い出した。やはり、本を読み返すのはすごく面白い。昔の感情を思い出す。割と心地がいいもんだ。

240円。

ほんの5分前、僕は240円で幸せを買った。

甘いピーチティーマルゲリータ風味の細長いお菓子。幸せという括りの中では微々たる幸せだろう。でも、綺麗な水も十分な食料もない環境であるなら大いな幸せとなる。

まあ幸せの比較など意味のない話だが…ということでさっきの話に戻ろう。

240円の紅茶とお菓子。

些細な幸福でも幸せは幸せであり、小学生のお小遣いの様な金額でもお金はお金だ。つまり、僕は幸せをお金で買った。

「幸せはお金じゃない。」と誰かが言った。

ただ残念ながら僕はその言葉を全肯定できるほど優れた人間じゃないし、どちらかと言うとお金で買える幸せが大半だと思ってる。確かにお金で買えない幸せもあるが、その大抵の本質は人の心だろう。優れた人間ではない僕だけれど、人の心を金で抑圧して手に入れたものを幸せと呼ぶことができないくらいには劣ってもいないと思う。

幸せの価値など人によって異なり、その上日々変化していくそれに優劣などという比較は意味ないが、人間の価値には明確な優劣が存在すると思う。そのことについてはまた今度書こう。

して、幸せ=お金が成り立たないという主張に賛同しないわけでもない。というか成り立つ場合はものを買うことが幸せとなる浪費家か老後安泰を夢見る貯金家くらいだろう。ある意味では正しい。しかし、お金を経由した幸せは沢山のある。その間接的な関わりを見れば、幸せ=お金という考え方も正しい。

そんな中で僕はどうしようかと考えてみた。どちらも正しいのならどちらを選んでもいいはずだから、せめて幸せのあり方くらいは自分で決めたいと思った。その決意が240円。僕は小さな幸せをお金で買った。