Ms.teryさん

気の向くままに

あなたの時間を奪うだけです

言葉って不完全で完成形じゃないですか。それがどうしても変な感じがするんですよね。

 

言葉以外に自分の感情を伝えることはできないのかって何度も考えるんです。身振り?行動?表情?いろんな方法はあるけれど、どれも曖昧なもの。

でも確かに、気持ちが通じ合える時ってあるんですよ。あぁ…今同じ気持ちをしている。それを相手もわかってるがわかる。みたいな。

 

それなのに世の中は言葉ってものに甘んじている。そう感じるんです。どうせ気持ちなんて伝わらないのだから、言葉でいいや。というような諦めを感じるんです。

 

まあ、それも良いことですが…諦めも肝心って言いますし。だからこそ、馬鹿な僕は諦めてやらないでみようって思ったんです。

 

どうせ伝わらないって諦めているから、テレパシーを超常現象として捉えているのではないかって思ったんです(自分で言ってて馬鹿だと思います笑笑)。

 

でも、その前に一つだけ確かめなければならないことがあります。もしかすると僕だけがテレパシーのようなものを使えないだけで、周りの人は使っているのではないか。もしくは、少なからず使える人がいるのではないか。

 

なので、右に行くぞ!右に行くぞ!って脳内で繰り返し、左に曲がってみたり。グー出すぞ!グー出すぞって、チョキ出してみたり。いろいろ試してみました。

 

しかし、僕の考えていることが伝わっている様子は全くもってありません。まあ、テレパシーがあるんじゃないかっていう疑念が読まれた時点で回避される可能性もありますがね…

 

とりあえず次のステップに行くことにしました。目の前の人とじゃんけんをする。やる前に僕は何を出すか頭の中で考えるから、キャッチしてくれと相手に頼む。じゃんけんをする。その逆も試す。伝えよう、受け取ろうって気持ちがあればできるんじゃないかって思ったんです。

 

まあ無理でした。でも、諦めたくないんですよね笑笑。今でも考えていることとはあえて逆の行動をしたり、相手に送ろうとしたら、受け取ろうとしたりしています笑笑。

 

僕は馬鹿でありたいと思っています。この考えがそもそも馬鹿なのかもしれないけれど…その方が面白そうじゃないですか。馬鹿みたいなことをしてそれが本当だったら、馬鹿が天才を超えられる。そんな愚かな夢を見たいんです。

命とは

僕のルールのうちの一つ

 

“いただきます”と“ごちそうさま”をできる限り言うようにする

 

食事は現在だと毎日摂るもので、そんな中で生活していると命がなんなのかわからなくなってくる。目の前にある料理は牛、豚、鶏、鮭などと言ったものが沢山使われている。

 

気づいたんだ。僕は目の前のステーキと野原を歩く牛の姿が結びつかなかった。目の前の生姜焼きと泥遊びをする豚の姿が結びつかなかった。唐揚げを見ても、焼き鮭を見ても生きている彼らと“それ”が結びつかなかった。

 

僕は僕が生きている中で誰かを殺していることに気づいていなかった。いや、頭ではわかっていた。僕は無関心だった。気にしようとも思わなかった。

 

そんなある日、生きている彼らを見ようと動物園に行った。動物園と言っても小さな小さな動物園。でも、そこには確かに彼らがいた。僕の知らない彼らがいた。

 

彼らも僕らと同じように生きていた。周りの仲間と遊んで楽しそうだった。ちょっとした好奇心でワッて声を上げたら驚いていた。両親が構ってくれなくて悲しそうだった。

 

でも、ひとつだけ違った。決定的に違った。僕はそれをワニで見た。飼育員が餌をあげていた。切られた肉。もう生きていない肉。飼育員が毎日餌をあげるのだから放って置いてもいいはずなのに、ワニはすぐに飛びついた。誰かに奪われることを恐れるように貪りついた。

 

僕はワニのようになりたいと思った。料理と彼らが結びつかなくとも、結びつけたいと思った。だから、少なくとも“いただきます”と“ごちそうさま”を言おうと決めた。その時だけは、ちゃんと生きていた命と向き合おうと決めた。

1週間に1冊

最愛なる一度も読んでいない本へ

 

 

大変申し訳ございません。

 

1週間に1冊本読むぞって決めて買ったのにも関わらず、始めた翌週からサボってしまい本当にごめんなさい。言い訳なんてありません。

 

著者の方が一生懸命、何日もかけて添削を繰り返し、編集者の方が何十時間もかけて校閲をやり遂げ、出版社の方が何度も発行数の確認をして、書店の方が朝早くから並べて、やっと世の中へと出てきた本を読みませず、放置をしてしまった僕は大罪人です。

 

来週からはちゃんと読みます。いえ、ありがたく読ませていただきます。なのでどうかお許しください。命だけは…

 

 

死刑囚 Ms.tery より

ぷつんって身体のどこかで聞こえた気がした

自分の中の何かが壊れる、そんな瞬間を迎えたことはあるだろうか。

 

自分を支える細い糸に向かって、小さな小さな出来事がボタンを押して、大きなハサミを動かす。このハサミは錆びついていて切れ味など皆無だが、確かに糸はほつれていく。バーバーカットみたいなイメージかな。

 

その過程は身が裂けるような痛みを伴う。けれど、最後の一瞬だけは違う。ぷつん。微かな音だけが聞こえる。

 

もう戻ることなどできないのだと悟る。変わってしまった自分へ絶望したいが、感情すら湧かない。ただ何かを失ったことだけを俯瞰する。そんな瞬間を迎えたことがあるだろうか。

 

つい先日人差し指を切った。その出来事が僕の何かを変えた。大切な何かだった。飛び出して、誰が奪ったんだ返せって泣き叫びたかった。でも、どうでもよかった。大切な何かがなんだったのか知りたいとも思わなかった。

 

気づいたんだ。僕は唯一持ってた生きる理由まで無くしてしまった。僕はもう生きる目的も意味も理由すらも持ち合わせていない。

どれほどの絶望があって自殺するのだろう。想像がつかない。考えたくもない。

今日指を切った。カッターでスッと。割と深めに。不注意だった。切ってすぐに指を洗った。血はなかなか止まらない。止血しようと手首を押さえても止まらない。血がどんどん溢れてくる。意識が遠くなっていった。息がしづらくなった。視界が霞んでいった。血の気が引いていった。頭は冷静なはずなのに、パニック的な感じに陥った。立てなくなって、座り込んで、胸が痛くなって、腹が痛くなって、頭が回らなくなった。でもやはり冷静で、手は心臓より高い位置を保った。血は止まった。すぐに冷やした。傷が塞がったのを確認して、絆創膏を貼った。しばらくは動けなかった。

 

この感覚を昔、一度体験したことがある。少し前に僕は死を目の当たりにしたのが高校の時で遅いって言ったけど、それは間違いだった。なぜ忘れていたのだろう。忘れていたことが不思議で仕方がない。僕にとってはかなり衝撃的な報せだった。

 

おじさんが死んだ

 

おじさんと言っても僕の母親の叔父さん。釣りが大好きで、よくお刺身をくれた。一度だけサメを釣ったんだって喜んで帰ってきたところに居合わせて、サメの刺身を食べさせてもらった。なかなかに美味しかった。なぜ回るお寿司にないのだろうと考えたほどだ。そんなおじさんが死んだ。当時小学3生だった。僕は死を理解していなかった。単語は知っていたけど、体験したことはなかった。おじさんは半年くらい前から体調を崩し病院に入院していた。その日は母親と伯母さん3人がおじさんのお見舞いに行っていた。しばらくして、母親たちは元気なうちに僕と従兄弟らをもう一度だけ会わせようと家に帰ってきた。でもその道の途中におじさんが死んだ。母が帰ってきた時は泣いていた。「おじさん死んじゃったんだって」そう言った。僕はなぜ母が泣いているのか分からなかった。そのまま僕らはおじさんの葬式に向かった。そこには動かないおじさんがいた。血の気は全くなく、本能的にもう生きていないことがわかった。その瞬間に死を理解した。すぐに気持ち悪くなった。意識が遠のき、呼吸が荒くなり、喉が無性に乾いた。僕はその場を離れた。近くの椅子に行こうと歩いたが、ふらつき、立てなくなり、今にも吐きそうになった。そんな僕を祖父が見つけ、椅子まで連れていってくれた。

 

この時と全く同じ感覚だった。指を切って、止まらない血を見て僕は死を連想した。僕の愛犬が亡くなった時、鼻から血が止まらなかった。その時の記憶が蘇った。ただ指を切っただけ。自分でもそこまで動揺するとは思わなかった。

 

やっぱり、僕は死ねない人間なんだ。そう改めて実感した。

道徳的な人間は嫌いだ

僕は道徳的な人間が嫌いです。そもそも道徳的な人間がなんなのかってところになるのですが、一般的に言うと人として正しい行いをする人のことらしいです。多分、僕が道徳的な人間が嫌いな理由はこの“正しい”が大多数の人にとってのものだからなのかなって思います。

 

正しいってなんでしょうか

 

まあほとんどの人が頭ではわかっていると思います。そんなものの答えなんてない。それぞれにそれぞれの正義がある。ただやっぱり大多数的な正義もあるわけなんですよね。簡単に例をあげるなら、法律などといったルールや規範ですね。

 

少し話は脱線しますが、葦原大介が著者のワールドトリガーに空閑という名前の子がいて、その子が言ったセリフがあります。

“法律ってのは世界を回すためにある。お前を守るためじゃない”

そうなんですよね。法律などのルールって何かを円滑に進めるためであって、結果的に大多数の利益にはなり得るけど、個人の利益になるかと言われたら怪しい部分がありますよね。円滑に進むのは確かにいいことかもしれない。でも、そのルールが理不尽なことなんてざらにありますから。

 

話を戻すと、偏見かもしれないけど道徳的な人間ってルールに忠実すぎるんですよ。申し訳ないですが、すごく気持ち悪い。特に嫌いなのはルール=正しいと即変換する人。何も考えずに従う人。本当に個人的価値観になって、申し訳ないです。

 

僕の中では道徳的な人間=中身のない人間って思っちゃうんですよね。もちろん、例外もちろんありますよ。道徳的な人と言ってもその人自身のルールがあってそれに則った結果、道徳的だと認識される人とか。

 

何が言いたいのかと言うと、自分のルールだったり、正義だったりがない人が嫌いなんです。だって、つまらないでしょう。と言っても、最近(昔のこと知らんけど)はつまらない人間はいらないって会社も増えてきたし、個人が尊重される時代になってきたし、中身のない人間なんてそうそういないですけどね。

 

 

読み返してみるとすごい上から目線的な発言していました。本当に申し訳ございません。あくまでも一個人の戯言にすぎません。

もう2度と会うことのない人達へ

僕の中にはいろいろとルールがある。

その一つのお話。

 

お別れは悲しくなければならない

 

だから、形式的なお別れの後は泣くことにしている。ルールって言っても、僕はそうしたいからそうしている。できるだけ悲しみたい。

 

そう思うようになったのは、僕の1番の友達が死んじゃってから。人間ではない。僕の愛犬。名前はラブって言うんだ。9歳まで生きてた。死んでもう2年が経つ。

 

少し昔話をする。僕は不器用な人間だった。保育園の頃から先生には敬語を使っていた。周りの人が怖かった。でも、一方で我儘な性格だった。自分の思い通りにしたいけど、それを他の人に言えず、我慢することばかりの子供だった。小学生の頃、僕はかわいいものが好きだった。かわいくなりたかった。かわいいヘアピンを見つけた。我慢ばかりしていたものだから、それが嫌になってどうしてもつけたくなった。学校につけていった。沢山いじられた。次の日もまた次の日も。長らく続いた。僕は学校に行かなくなった。そんな時に、母親がわんこを買いにいこうと言った。そして、ラブに出会った。ラブは僕の話をいつまでも聞いてくれた。僕が泣くと側に寄り添ってくれた。優しいやつなんだ。それで、その時は学校へ戻れるようになった。ほんと救われたよね。小さいくせに僕の中では大きな存在だった。

 

そんなラブが2年前に死んだ。家に帰ると、ラブが鼻から泡をふいていた。抱き抱えるとぐったりしていた。その日は日曜日だった。病院に電話をしても繋がらなかった。気づくとラブの鼻から血が出てきた。意識も朦朧としていた。かろうじて息はしていたけど、弱々しかった。僕にはどうすることもできなかった。ただラブが動かなくなっていくのを抱き抱えながら見守ることしかできなかった。ラブは冷たくなった。その日は1日中泣いた。もっとああすればよかった。もっとこうしとけばよかった。もっとラブと過ごしたかった。

 

僕の胸にはぽっかりと大きな穴が空いた。9年も一緒に過ごした友達の存在はあまりにも大きかった。なかなか埋まらなかった。埋めようとも思わなかった。そんなある日、親戚の訃報を耳にした。

 

生きている限り、やはり死ぬ。

生きている限り、誰かの死と出会う。

 

それをすごく実感した。僕は遅いほうだ。高校生になるまで、死という実感はあまりにも薄かった。でも、大切な人に明日も会えるとは限らない。僕が生きているかもわからない。だからお別れは悲しみたい。卒業や引っ越し、ばいばいだって悲しみたい。

 

僕はルールを決めた。

お別れは悲しくなければならない。

別れた後は感傷に浸ろう。

泣いてしまおう。