「私、死んじゃいました。」
健康体そのもののような少女は言った。
とても死んだようには見えない少女。
しかし僕には彼女が死んだという確信があった。
他でもないこの僕が彼女を殺したのだから。
飲酒運転中の交通事故。最悪だ。
しかし、幸か不幸か、少女は出来事をなかったことにできると言う。
厳密に言えば、物事を“先送り”できるらしい。
少女の死まで10日間の猶予。
この10日を少女は人生をめちゃくちゃにした人たちへの復讐へと捧げる。
「もちろん、手伝ってくれますよね。」
拒否権なんか僕にない。
殺した僕と殺された少女の復讐劇。
んー、やっぱりまとめるのは難しい。
というわけで三秋縋さんの『いたいのいたいの、とんでゆけ』を読んだ。
これも読むのは2回目。
三秋さんの本は大体読んでる。
読んでないのは『三日間の幸福』くらいかな。
三秋さんの本に共通してるのは、穴の中の微かな幸せを描いているところ。
人生には穴がある。
大きな穴や小さな穴、深い穴、浅い穴、また落とし穴なんかもあるらしい。
自力で出れるのなら構わないが、出ることが不可能とも思えるほどの穴がある。
そこから這い上がるお話ではなくて、その穴の中の小さな幸せを描いている。
だから、大抵はハッピーエンドとは言えない。
虚構の中だけでもいいからハッピーエンドで終わるって欲しいと思う人もきっと少なからずいるだろう。
でも、三秋さんの物語はハッピーエンドには似合わない。
いつも結末は幸せではないけど、最悪っていうわけでもない。
なんて説明したらいいかわからない…
まあ、どうだっていいや。
この本の中で、結局は赤の他人というような内容が出てくる。
赤の他人なのだから、“人のために”だなんて無理に決まっている。
もし“人のために”が成立するのならば、自分の幸福の同一線上にある場合だけだ。
きっとそうなのだろう。
昔からずっと考えていることなのだが、“人のために”動ける人が本当にいたとして、その人を“人のために”動いていると言えるのだろうか。
人のために動いた成果に喜ぶこともなく、人のために動いた自分に酔いしれることもなく、人のために動いた時間を悔いることもなく…
そんなのを人と呼んでいいのだろうか。
どちらかと言うと機械に近い気がする。
やはり、自分の理想が“人のために”行動することという人はいなくもないかもしれないが、本当に完璧な“人のために”動く人などいないのかもしれない。
いたとしても、僕はうまく想像ができないな。
いたらすごいとは思う。
けど、同じくらいには気持ち悪いって思う。
人に優しくなりなさい。
なんて家でも学校でも、なんなら社会でも言われるけれど、そんなのは詭弁だろう。
人の幸福がお前の幸福だって強要されてるようなもんだ。
自分の幸せを追い求める人になりなさい。
僕はそう言われたかった。