Ms.teryさん

気の向くままに

僕は幸せであろうとする人間である

僕には理想がある。それは“七草”だ。彼のようになりたい。河野裕さんの著書『いなくなれ、群青。』の主人公。彼は自分を悲観主義者と言う。全てを諦めてしまえば、期待などしなければ、不幸になることなんてない。きっとそうなのだと思う。僕は中学の時、彼に出会い“諦めること”を学んだ。そして、何もかも諦めた。そう言うと聞こえは悪いが、実際僕は彼に救われた。僕はまず僕を諦めた。僕なんか別にどうだっていい。心からそう思えた。それからは何もかもが楽になった。僕なんてただの他人事。どうなろうが痛くも痒くもなくなった。彼が言った通りだ。「我慢の類義語が諦めだよ」僕はなんだって耐えることができた。無視されても、蔑まれても平気だった。不幸ではなかった。けれど、彼は僕を裏切った。全てを諦める、そんな世界は悲しい。その通りだろう。何も望まなければ確かに不幸にはならない。でも幸せになることもない。生きる理由も意味も目的もありやしない。そんな世界が楽しく見えるはずがないだろう。僕の中で、彼がそう発言したのはやはり“真辺”の影響だろうと思った。どこまでも真っ白で、どこまでも正しい人。七草は真辺を信仰していた。気づけば僕も真辺の影響を受けた。僕は僕を認めようと思った。それはすごく難しいことだった。認めることができなかったから、僕は僕を諦めた。僕は僕を他人と認識した結果、一部記憶が抜け落ちていた。忘れていることすら気づかない内はなぜ自分を認めることが難しかったのか理解できなかった。その時は認めることなど簡単だった。でもなにか違和感があった。その違和感を突き止めていくと嫌な記憶がどんどん蘇った。正直死にたくなった。辛かった。苦しかった。死ぬ日だって決めたし、場所も方法も決めた。けど結局は死ねなかった。死ぬ勇気すら持ち合わせていなかった。まあそれからなんやかんやあってずるずる生きていた。そして、初めて大切な人ができた。その人は言った、私の好きな人が幸せじゃなきゃダメなのだと。でもそれは私の考えであって、考えを押し付けているから不幸と呼んでいいのだと。そう言われて心の底から嬉しかった。同時に心の底から悲しかった。僕はこんな素敵な人までも巻き込んでしまっていたのだ。そこからの自己嫌悪は止められなかった。僕自身を認めることなど程遠かった。結局、大切な人は僕から離れていった。僕を見ていると苦しいと言われた。何も言えなかった。またなんやかんやあった。その中でいろいろ考えた。そしてあることを決めた。“僕は幸せであらなければならない”僕が幸せであれば大切な人を傷つけることなどない。だから、僕は幸せであることを最優先事項にした。その過程で誰かを利用してもなんとも思わなかった。多分、僕の壊れている部分だと思う。ただ幸せであろうとした。結構、うまくいったと思う。そこで僕は僕を定義した。僕は幸せであろうとする人間である。今もこの定義の上に僕は立っている。僕は間違っているのかもしれない。その答えはまだわからない。でも、頑張っていこうと思う。