Ms.teryさん

気の向くままに

死ぬ可能性

昨日、僕は死んでいたかもしれない。

想いを寄せる人に誕生日プレゼントを渡して、買い物に行って、二人でアイスを食べて、バス停でばいばいって別れた帰路の途中に死が転がってた。

 

生きている限り死はずっと付き纏うものであって、死んでいたかもしれないというのは毎日のようにあるはずなのだが、ここでいう死んでいたかもしれないというのはそれがわかりやすく体感できたということ。

 

家の近くの交差点。

押しボタン式の横断歩道。

いつも通りの帰り道だった。

 

僕はボタンを押し、スマホを見ながら青になるのを待っていた。

すぐに青になった。

僕は前へと視線を移し、進もうとした。

すると右側からエンジンの音が聞こえた。

渡るにはあまりにも不自然な音だったから、足を止めて右に視線を向けた。

よそ見をしていたのだろうか。

大型トラックが僕が渡ろうとした横断歩道を横切った。

止まっていなければ確実に轢かれていた。

あの距離ではブレーキは絶対に間に合わない。

 

僕の目の前を横切る瞬間、トラックの運転手が申し訳ないって身体中で表現していた。

死んでいたかもしれないのに、笑っちゃった。

だって彼があまりにも必死だったから。

 

もし僕がそのままスマホを見ながら飛び出せば、轢かれていたよね。

ただ僕はそんなことはしない。

僕のルールだ。

道を渡る時は道に注意を向ける。

自分が危ないからってのもあるけれど、ちょっと違う。

僕は不意に訪れる死が怖いんだ。

死ぬなら自分で死にたい。

道を渡る時、道に注意を向け、スピードを出して突っ込んでくる車を見ながら今死んでもいいか考える。

死にたくなったら飛び出そうってね。

まあ飛び出したことはないのだけど…

 

 

あ、そうそう。

ハワイでは面白い法律があるんだ。

横断歩道でスマホを見てはいけない。

もしかしたらアメリカ全体で言えるかもしれないけれど、流石に全部の州はわかんないや。

見つかると罰金があるらしい。

よく日本人が引っかかるから気をつけるように先生に言われた。

 

ま、そんなことは置いといて

死にそうになった。

でも、生きてた。

ただ僕は本当に足を止めてしまってよかったのかって考えた。

一瞬の出来事だった。

僕が足を止めたのは本能によるものだろう。

僕は死ななくてよかったのか。

絶好の機会を逃したのではないか。

 

しばらく考えてわかった。

僕はまだ死にたくない。

生きていたい。

 

結果として僕の選択は間違っていなかった。

でも、次からはきちんと選択できるように備えておこう。

スターティング・オーヴァー

『スターティング・オーヴァー』を読んだ。

著者は三秋縋さん。

僕のお気に入りの作家の一人。

この本は三秋さんの処女作だ。

読んだというと初見な感じがするけど、この本を読むのは2回目。

つまり、読み返したってことかな。

 

あらすじをギュッてして、スパンッてして、またギュッてした感じで話すと

 

20歳の“僕”は幸せという言葉が似合うほど、むしろ幸せという言葉以外に当てはまる言葉が存在しないほどに幸福な生活をしていた。

優しい友人、かわいい妹、素晴らしい彼女。

何をとっても完璧だった。

“僕”の人生に後悔なんてなかった。

そんなある日、目を覚ますと10歳の誕生日に戻っていた。

“僕”は完璧な一週目の人生を再現しようとした。

しかし、“僕”が座るはずだった席には代役がー言うなればドッペルゲンガーがいた。

 

そんな感じの物語。

もうちょい先まで話すけど、代役のせいで“僕”は人生の再現に失敗して、気がつけば完璧や幸せなどという言葉は見る影も無くなってしまっていった…

 

どう?続き気にならない?

…まあそうだよね。

こんな紹介じゃ気にならないよな…

 

紹介したいから書いてる訳じゃないんだけど。

でも、読んでみてくれるとなんとなく嬉しい。

 

 

この本を読んで僕は確信した。

僕の思考回路だったり、僕のリズムだったりは多分三秋縋さんの影響を受けている。

もちろん、河野裕さんの影響も大きい。

僕の理想は真辺由宇で、僕の憧れは七草だ。

根っこの部分の考え方は河野さん由来だろう。

 

しかし、見方を木を中心に存在感を持たせるようにじゃなくて、その枝に実る小さな果実を捉えるようにすると三秋縋さんが近い。

会話のテンポや思考の流れは『スターティング・オーヴァー』の“僕”そのものだ。

ほんと、笑っちゃうくらいに僕すぎる。

僕よりも僕らしいんじゃないかな。

 

話が長ったるくて、誤解を生まないように言葉を選んで、自分を定義して、そのくせ感情的に自分を壊す。

読んでて思ったもん。

こいつ僕にすっげえ似てるの。

外面いいけど、内面は皮肉で溢れてんの。

人生めちゃくちゃにした嫌いな奴に会っても、怒るんじゃなくて興味持たねえの。

結局はなんだって自分のせいだって受け入れるの。

 

ただそいつはこう言うんだ。

たった一つの出来事のせいで、歯車が合わなくなって、うまく回らなくて、そのうちにバラバラになってしまう。

逆も然り。

人生は良い方にも悪い方にも転がる。

僕も君もそういう可能性があるってこと。

 

共感はできるけれど、その可能性を考えることを僕は好まない。

まあ“僕”も好まないのかもしれない。

“僕”はその可能性を目の当たりにしたのだから、その事実を述べただけなのだろう。

きっとそうだ。

 

ただ、なんだかその言葉が刺さってね。

考えさせられるのよ。

僕の可能性ってなんだろうってね。

君らにはそんなこと関係ないよね。

だから、この後じっくり考えるとするよ。

逃避

俺さ、みんなの前で「差別だの区別だのごちゃごちゃうるせえ。君だから、それだけでいいだろう」的なことを上から目線で言った。

 

でもさ、そんな偉そうなこと言っておきながら僕自身が本当にそうしていたのかと聞かれても、はいそうですと肯定することはできない。

 

 

僕はずっと逃げてきた。

ずっとずっと僕は僕から逃げてきた。

今だって自分から逃げてるのかもしれない。

だって俺、女になりたいのかまだわかんないもん。

 

昔は本当に女の子になりたかった。

髪を伸ばしたくて、髪留めに憧れて、スカートが輝いて見えた。高い声が欲しくて、細くて白い肌が羨ましくて、膨らむ胸が憎かった。

 

そうは言ってもさ、女になる勇気なんかなくって、次第に諦めていった。

いや、諦めたのだということにしていた。

 

高校に上がるまでの一人称は俺。

俺である限り僕は僕と向き合わなくて済む。

そうやって何度も逃げてきた。

 

そのツケが回ってきたのは高校1年の時。

初めて好きな人ができて、でも自分はどうしたいのかわからなくなっていて、好きな人に満たされた分だけ苦しくなって、別れを告げられた。

 

今までの人生の中で1番後悔した。

 

俺は何やってんだ。

付き合っていながら、結局は俺自身のことしか見えてなかった。

俺という形がどんどん保てなくなっていく中で、その形を無理やりにでも保とうとして大切な人を傷つけた。

馬鹿だよな。

 

僕は僕なのに、俺なんだって見栄張っちゃったばっかりに大切なものが見えなくなっていた。

 

逃げることが悪いとは言わない。

でもやっぱり、僕は逃げるべきではなかった。

僕から逃げるべきじゃなかった。

 

 

女になりたいのかどうかわかんねえの。

かわいいものは大好きだよ。

髪をピンで留めたいよ。

スカートだって履きたいよ。

でも、僕の感性は長年一緒だった俺なんだ。

 

今更女性のようには振る舞えないの。

なのに女性のように振る舞いたいの。

笑っちゃうよね。

ザ・スイッチ

映画を見に行きました。

1人で。

はい、独りで。

 

何か文句でもありますか?

こんなご時世でありまして、周りはカップルが3組だけ。

そこに僕が1人。

 

何か言いたげな顔してますね。

みなまで言うでない。

 

 

というわけで、『ザ・スイッチ』という映画を見ました。

洋画でした。

吹き替えありませんでした。

字幕で見ました。

結構疲れますよね。

 

軽く概要だけ説明しますね。

ざっくり言うと、女子高生(?)のミリーと快楽連続殺人犯のブッチャーがなんやかんやあって入れ替わり、なんやかんやして元に戻ろうってミリーが健闘する物語。

 

ざっくりしすぎかな?

まあいいでしょ。

内容はすごくよかった。

無駄な部分が一切なかった。

シーンひとつひとつにちゃんと意味があった。

 

ただね、ホラー映画だったのよ。

R15の映画だったのよ。

なんといっても殺害シーンがグロい。

最初の殺害が衝撃すぎる。

ワインの瓶の太い方から口に無理やり入れて、喉で詰まって、押し込んで、喉で瓶が割れて、破片が首から出てくる。

言葉にするとこんなもんだけど、グロい。

 

一番印象的だった殺し方は、マイクラのロックカッターみたいな、作業で使う電源入れるとグルグル回る大きなノコギリ的なのに向かって、頭から切っていく。

本気でグロい。

目瞑ったもん。

 

グロい方のホラー映画だった。

でも、僕の苦手なビックリ系のホラーもあって、ビビり散らかしました。

ホラー映画でお化け屋敷入るのはダメだよ。

ビックリしたじゃんか。

 

 

昔の映画のパロディなのかな?

詳しくはわからないけれどそんな感じらしい。

ところどころ古い見せ方もあったような…

でも、やっぱり面白かった。

みんな口悪くて、笑っちゃったよね。

タマ、ペニス、セックス、フェラなどなど。

いろいろ詰め込まれてた。

普段そんな会話しないからやっぱり面白い。

 

平気で中指立ててたし、アメリカンって感じがしたね。

たまには字幕で見るのもいいなって思いました。

でも、もうホラー映画はみたくないっすね…

性自認

僕にも言えることなんけど…

 

性自認に困っている人がいるのを理解しているつもりでも、実際に相手はどうなのかって考えられてない。

そう思いません?

 

あれ、僕だけ?

うそだ…もしそうならごめんよ。

生物学的には男の僕が、中性よりの女の子になりたいとか言っておきながら、相手のことは見た目で判断してました…

本当に反省しています。

 

と言っても、気をつけてはいるんですよ。

ただやはり見た目という情報はものすごく大きいものでして、性自認に困っててなりたい性の格好をできない人がいることを忘れちゃうの。

本当に良くないですよね。

直さなきゃ。

 

実際、僕も悩んでいたんです。

女の子みたいな格好したいけど、馬鹿にされそうで、気持ち悪がられそうで、すごく怖かった。

そういう人多少なりともいると思うんですよ。

 

でも、そういう人って他にも困ってる人がいるって見えてないことが多い気がするんです。

自分だけで手一杯なのもわかります。

ただ僕らだけは忘れちゃダメだと思うんです。

 

僕らが理解しようとしないで、誰が受け入れるっていうんですか。

受け入れられておきながら、自分は関係ありませんって非情じゃないですか。

 

少なくとも僕はそう感じる。

気をつけたいね。

モノアモリー

生物としては優秀なのだけど…

生物としては正しすぎるのだけど…

(まあ生物に正しいもクソもないよね)

 

彼氏彼女、もしくは夫妻がいるのに他の人を抱きたい、愛したいって僕は考えられない。

 

僕は根本的に理想主義なのだと思う。

というかそう認識している。

だから、1人の人を僕の人生をかけて愛することを理想としている僕は、そうじゃない人を受け入れられない。

 

受け入れられないは言い過ぎか。

理解することはできる。

そういう人もいるのだと理解している。

ただ分かろうとは思わないかな…

 

 

僕は不器用だから、何か1つのことしかできないんだ。

といっても、同時並行ができないわけではない。比較的できる方ではある。

ただ完璧には程遠くなっちゃう。

 

何かに集中する場合、やっぱり1つのものしか見えなくなる。

他にも気を配りたいけれどできないから、そういう意味で不器用なのだと思う。

 

 

恋愛ともなるとスーパー不器用。

1人しか見えなくなる。

僕の悪いところだ。

でも、僕はそれを誇りに思ってたりする。

(超不器用でその1人に集中しすぎちゃうのは馬鹿だなって思うけれど)

 

モノアモリー、ポリアモリーどちらがいいなんてわからないけれど、僕はモノアモリー派。

弱さ

弱さというのは、とても心地がいいんだ。弱いからできないと言ってしまえば楽になれる。だからわりと簡単に、人は自分が弱いのだと認めてしまう。でもね、それをやめれば-自分が弱いのだと認めなければ、少なくとも諦めないでいられる。

引用『魔女と思い出と赤い目をした女の子 サクラダリセット2より